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自然体

塚田が帰宅したとき、時刻は夕方の四時をまわっていた。台風が過ぎたあとの空は笑えるくらいに晴れ渡り、窓をとおして橙色の陽射しがまっすぐ降り注いでいる。塚田は全身ぐったりと疲れていたので、カーペット敷きの床に身体を横たえた。初夏に入ってもなおカーペットを片付けていないことにふと思い至り、次の休みにはきちんと掃除機をかけて押入れに仕舞わなければと、朦朧とした頭で考えていた。

部屋の小型テレビを点けると、ちょうど百万石行列の中継をやっているところだった。金澤に二十五年も住んでいて、一度も真面目に参加したことのない市祭だった。利常公と珠姫に扮した子どもたちが輿に載って「城下」を練り歩いている。利常公も珠姫も、その御付の子どもたちも、神妙な面持ちで懸命に役目を果たそうとする姿が何とも健気であった。たいそう健気であって、彼ら彼女らの将来を無性に心配する感情に、塚田自身が驚いていた。驚くと、とたんに胸が苦しくなった。身体はひどく疲れていた。その根源となる出来事が全身に覆いかぶさるように感じられた。

*****

彼は数日前に金庫の鍵を失くした。いや、正確には失くなっていることに気づいたのが数日前だった。先々月には記帳のために塚田が金庫を開けて施錠したところまで記憶してさえいた。ところが鍵ばかりが見つからない。家の者にも尋ねたし、鍵が落ちていそうな場所も隈なく探してみたのだが、一向に所在が分からなかった。仕方なく金庫屋に電話して見にきて貰った。金庫屋は一時間ほど粘って開錠を試みたが、永く使い古した金庫が中で傷んでいるのかウンともスンとも言わず、やむなく鍵穴を破壊してようやく中の物を取り出せた。金庫屋が工費を安くまけてくれたのが不幸中の幸いであったろう。彼に御礼を言って丁重に帰したあと、塚田はただの分厚い板切れになった金庫の扉をぐっと持ち上げた。二万二千円の工費で破ったにしては随分と重たい鉄扉だった。塚田はそれを洗濯場の隅のゴミ置き場に運んだが、どうしてか古い仏像を割ってしまったような罪悪感に苛まれて、鉄扉に向かって深く合掌礼拝した。

次の日、新しい金庫を買いにホームセンターへ出かけた。彼にとって普段は用事のない場所だからか、あまりに建物の天井が高いのに目が回る思いがした。店員の案内で金庫売り場をざっと確かめて、鍵を壊した工費よりも安い金庫を選ぶことが出来た。しかし、ここで新たな問題が起きた。新しい金庫を自宅に運んでもらうとき、配送料の四千四百円が別途必要だとは聞いていたが、塚田の住む団地の部屋は三階にあったので、さらに四千四百円を積み増しせねばならなくなった。二階と三階のちがいだけで配送料が倍増するのは納得しがたいものがあった。しばらく店員と無益な押し問答を繰り返したものの、結局は八千八百円の配送料を支払った。業者の立場になれば、腰を痛める危険を負ってまで重たい金庫を持ち上げてくれるのだ、というのが塚田の見出した妥協点だった。エレベーター設備ひとつない団地に住んでいるこちら側が悪いような気さえした。

*****

諸々の手続きを終えて帰宅した塚田は、すっかり疲労困憊になって行列のつづきを眺めていた。テレビ画面の下にリアルタイムで視聴者のコメントが流れるのもここ最近のことだろう。鮮度・簡潔・自然こそが現代に求められる情報のかたちだと思われた。あらゆる物事が等身大であることを最善とした。飾ったり、盛ったり、作ったりする行為は一部の人間を除いて忌避されている。だからこそ塚田はその一部の人間になりたかった。飾ったり、盛ったり、作ったりする行為が自分に空いた巨大な穴ぼこを埋めてくれると信じたかった。信じたくて信じたくて、とうとう破綻した男の一例に過ぎなかった。永らく活躍してくれた金庫がたったの二万二千円で壊されたのと同じくらい呆気ない最後だった。塚田は居た堪れなくなって、テレビの電源をぷつりと落とした。夕陽は既に深く傾いていた。
夕飯の蕎麦をかきこんでいたとき、唐突に家の電話がなった。それは故あって別居している母親からであった。
「あんた、ちゃんとご飯食べとる?」
先週よりも張りのある声に塚田は安堵した。
「食べとるよ」
塚田は嘘をついた。本当は食欲なんてものは湧かないので、適当に蕎麦を啜るのが関の山であった。
「ほんなら良かった。きちんと自分で作って食べるんよ。外食ばっかせんと」
今夜の蕎麦……も一応は茹でて冷水に晒し、麺つゆをかけた料理ではあるので、母親のいう「作った」うちに入るだろうと塚田は勝手に納得した。
「ごめんね、こんなことになって。……お父さんとは上手くやれてるの?」 
「お母さん謝らんで。あの人と一緒に住みたくはないけど、折合いつけてやっとるから」
ご飯の嘘なら平気でつけるくせに、こういう話には嘘をつけないのが塚田という男だった。とたんに母親の声音が暗くなった。
「ごめんね」
塚田は気を取り直して、あくまで自然な様子を貫きとおす決意を固めた。
「いいんよ、お母さんは悪くない。今度ゆっくり会って話そ」
そのあと二、三の世間話を交わしたあと、二人は同時に電話を切った。

塚田はシャワーで今日の汗と疲れを洗い流すと、早々に風呂場を出た。裸の自分が曇った鏡ごしにぼんやり映っている。背丈は伸びたが、相変わらずガリガリに痩せていた。骨ばった胸も腕もひどく不格好に見えた。塚田に恋人はいないが、そもそもこんなへぼな身体では女の人を抱けないと思った。そっと自分の肩に手を回すと、上気した身体から汗がどっと吹き出ている。汗をかけるなんて、生身の人間が生きている証ではないか。こんな不自然な自分でも、まだ生きていることが不思議だった。てきぱきと寝巻きに着替えて、父親が帰宅する前に部屋に飛び込んでぱたりと襖を閉めた。

ここからは秘密の時間だった。彼はミシン目で綴られた紙の束からその一枚をビリビリ破りとると、シャーペンの芯を斜めに滑らせて絵を描きはじめた。新調したシャーペンの書き心地は噂どおり最高で、あっという間に彼はラフ図を完成させた。次に、もう一枚の白紙を先のラフ図に乗せて、その上から線画の清書をやることにした。三十分くらいで若い女の子の顔が出来上がった。ふくよかな頬とつぶらな瞳が、塚田の心を柔らかくくすぐるようだった。
しかし、その女の子の上半身を描く段になって、ぱたりと筆が止まってしまった。塚田は女性の胸を正しく描くことが出来なかった。彼の拙い力量と良心がいつも障壁となって彼の筆を抑止するのだった。第一彼は男であって、正確に女性の胸のかたちを知るはずがなかったし、それを扇情的に大きく描くのも谷間を見せびらかすのも好みではなかった。あくまで彼は自然な女性の全身を描きたかった。しかし、自然なかたちを追求すればするほど、紙に引かれる線はいびつになり、胸や腕や脚が怪しげな輪郭に化けてしまう。こんな問題にひっかかるところすら、自分の浅ましい本性が透けて見えるようで恐ろしかった。結局、彼は呼吸を整えたあとで筆を持ち直し、できうる限りの自然な輪郭をイメージして全身を描き切った。やはり、全体的に輪郭のいびつな女の子だった。
荒れたおデコから風呂上がりとは別の汗が吹き出していた。塚田は蒸した部屋の襖をあけて台所へ駆け込むと、冷蔵庫にある野菜ジュースのパックを一息に飲み干した。冷たくて甘酸っぱい液体を強制的に胃袋に流すと、ほんの僅かだか憂さが晴れてきた。生活の不穏や、心身の不具合についていまは目を瞑ることにした。いつの間にやら父親は仕事から帰っており、閉じた隣室から大きな鼾が聞こえてきた。時刻は夜の九時を過ぎていた。

塚田は、ふと洗濯場の窓から黄金色の明かりが差していることに気がついた。見ると、大きな月が夜陰に浮かんでいる。とり憑かれたような足取りで洗濯場に下りると、まっくら闇にそこだけ照り輝いている不思議な宇宙の物体を飽きることなく眺めつづけた。

塚田はようやく自然な光に逢えた気がした。いま届いている明かりはどれくらい前に月を出発したものだろうか。月は自ら光を生み出さない。太陽のちからを借りてようやく人に愛でられるだけの光を放っている。それは美しくもあり、不気味でもあった。しかしなお、見る者を離さない神秘が月の光にはあった。塚田もその神秘に救われた人間のひとりであった。壊れた金庫もいびつな家族も痩せた身体も下手くそな線画も気にならなかった。夜気で冷たくなったコンクリの床に腰をかがめると、塚田は金庫の鉄扉に改めて合掌礼拝した。どうにもこうにも不自然な夜であった。そしてこんな夜こそ、いまの彼が生きている夜なのであった。

唐突にスマホの着信音が鳴った。こんな時刻にかけてくるのは一人しかいない。塚田は洗濯場から大股で台所にある端末を手にとった。いつもの彼女の声がした。彼女の存在もまた、塚田にとっては月明かりだった。不自然な夜の、不自然な関係が、一筋の光のもとに照らされる夢を思い描いた。相変わらず月は黄金色に輝いていた。哀しくも美しい夏の夜であった。

〈了〉





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