【掌編小説】藍空に玉響

腹を殴る轟音の拳に背を向けて、僕は混濁した雑踏を掻き分けた。
快晴の夜空に打ち上がる花火を前に盛り上がる大学サークルの輪、そこから僕がこっそりと脱け出しても、誰一人として、それに気づいた者はいなかった。規模の大きなサークルだし、そうでなくとも、この混み具合だ。こんなにも多くの人間が存在していたのか、と思わず目を見張る数の見物客がなだれ込む川縁。人が一人消えたぐらいでは、そう大した騒ぎにはならない。それに、サークルのメンバーの中でも、消えた人間がこの僕なら、尚更だ。
人脈、社交性、帰属意識、なんでもいいが、そんな類のものを暇な大学生活に取り入れたくて、サークルという集団に入ってみた。だが、春が過ぎ去った頃には、もうめっきり顔を出さなくなってしまった。
性に合わない。そんなことは、入る前から分かっていた。進んで組織を運営するようなことが昔から苦手で、何事にとってつけても、僕は常に受け身のたちだった。
高校を卒業した時を境に、僕は携帯電話を手放した。
人間関係に執着していないのだ。流れ着いた場所で出会った人たちと、その瞬間だけ仲良くすることができれば、それでいいと思っている。友人にも恋人にも焦がれず、その瞬間だけ濃く交わって、あとは一生離れ離れ、そんな関わり方をしてきた。
最高に楽しかった友人たちとも、最高に好きだった恋人たちとも、もう一生会うことはない。そして、大学を卒業すれば、同じ学部の友人や、このサークルのメンバーとも、もう相まみえることはないだろう。

人混みがまばらになり始めた頃には、火薬の匂いが遠のき、蒸し暑さも息苦しさも随分と和らいでいた。
街灯。点滅して、消えかけている。その先に視線を這わせたことに、特に理由はなかった。
ふと立ち止まる。点滅する灯に、蛾やら甲虫の類やらが集っている。
僕が見上げていたのは、さらにその上。誰かが、何かが、そこに座っていた、ような気がした。
当然、街灯の上に誰かが座っている、なんてことはない。
狐につままれたように虚空の一点で固まっていた視線は、ひらひらと目の前に舞い降りてきたそれに囚われた。
蝶。
羽根の外側が黒く、内側が青い。その全体に、白い斑点が散りばめられている。黒い部分と白い斑点が満天の夜空と同化して、ひとつの青い宝石が宙に浮いているみたいだった。
アオムラサキ、と言っただろうか。
その名前を思い出していると、蝶は覚束おぼつかない羽根をはためかせ、ゆらゆらと狭い路地に入っていった。
なんとなく、気になった。
気になって、僕はその後を追った。すると、路地裏に入って少し先のあたりで、蝶は民家の生垣に掴まって留まっていた。
僕が近づくと、蝶もまた飛んでいく。
そして、少し先の所で、留まる。
追いつけば、また飛んでいく。
「誘っているのかい?」
蝶に問い掛けても、当然、言葉が返ってくることはない。
一度だけ見失ってしまったが、辺りを見回していると、再びその蝶は夜空からひらひらと舞い降りてきた。そして、今度は見失うなよ、と言わんばかりに、その羽根の青をはためかせてふらふらと飛んでいく。
気づけば、僕は町外れにある小さな森の中に足を踏み入れていた。
獣の気配に満ちる、鬱蒼とした木立こだちの合間を進む。樹の陰で何かがうごめいているような、厭でもそんな錯覚を見てしまう。深閑とした森の中でも、花火の爆音は轟々と響き渡っていて、それもまた不気味だった。
目線の高さを舞っていた蝶が、入り組んだ坂道を不意に左に折れて、その高度を上げていった。
そこには、階段があった。

苔むした、細く長い石階段。切り立ったひとつの崖を別つように、真っ直ぐ上まで貫かれている。
蝶は何も気にしていない様子で、優雅に遠ざかっていく。
階段の手前、その両側に、石灯籠のような人工物がたたずんでいる。
明かりの消えたそれを前に、僕は立ち止まった。
そして、ひとつ息を呑んだ。
一目で分かる。手入れのなされていない、打ち捨てられた人工物だ。ただの階段が延びているとは思えない、禍々まがまがしい、この世ならざる世界が、その先には広がっていた。
ここから先に、行ってはいけない。
脳の直感とは裏腹に、身体は何かに後押しされるように動き出す。
膝を持ち上げて、その一段目に、僕は片足を置いた。
「おぉ……、釣れた釣れた」
耳元をさわりとでられるようなささやきを聞いたのは、その時だった。

灯籠に明かりが灯った。
白く、丸みを帯びた、柔らかい光。階段の手前だけではなく、その光は数段ごとに定点的に浮かび上がっており、階段の頂上までの道のりを妖しく照らしていた。
ひとつ、ひとつ、踏みしめて、身体は階段を上っていく。引き返したいのに、上っていく。身体の自由が利かなくなったのは、今この瞬間からなのか、それとも、あの街灯の下で蝶に出会った時からなのか、分からない。
見えない鎖に繋がれて、ズルズルと引っ張られるように、僕は階段の頂上に辿り着いた。
崖の上には、寂れた古刹こさつがあった。
周囲には木々が整然と生い茂り、砂利の敷かれた境内けいだいは円くかたどられている。その最奥に構える本殿、その真ん中を、太い麻縄でめられた巨大な神木が突き抜けていた。
半壊した鳥居の前で、僕は膝から崩れ落ちた。
静謐せいひつ。人々に忘れ去られた場所を前に、気圧されたのだ。
言葉などでは到底及ばないほどに、そこは異様な雰囲気に満ちていた。
膝の痛みをも忘れて、僕は目の前に鎮座する本殿を呆然と眺めた。
今にも音を立てて崩壊しそうな、折れていびつに傾いた本殿。障子や柱の木は朽ちに朽ちており、建物は一本の神木で真っ二つに割れ、どうやって自立を保っているのか解らない。屋根の瓦が所々がれ落ち、土や下地の材木が露わになっていて、それはそれは見るも無残な有り様だった。それなのに、寺院は何かが迫り来るような神々しい畏怖を解き放ち、境内は俗世から隔絶された聖域と化していた。

砂利を踏みしめる音を聞いた。
ハッとすると、本殿のすぐ手前に、誰かが佇んでいた。
女性。
僕は、ずっと、そこを視界に入れていたはずだった。しかし、その人が現れた瞬間を、捉えることはできなかった。今まさに現れたような気もするし、ずっと、ずっと前から、そこにいたような気もする。
女性の周りを、あの蝶が舞っていた。可憐な花の香りに誘われるように、ひらひらと、朦々もうもうと。
飾り気のない和装束を、女性は身にまとっていた。純白の布地、その袖や裾や襟の輪郭をなぞるように、朱色の線がほどこされている。腰の下あたりまで伸びた、真っ直ぐな黒髪。胸の前につくった空間を抱くように、その両腕は左右の袖の中へ互い違いに隠されていた。
目が合っている。
この世の者ではない、そう直感した。
「こちらへ、おいでなさい」
鳥居から本殿までそれなりに距離があるというのに、その声は耳元をさわりと撫でるように間近で囁かれた。
僕は動けなかった。
「来ないか。ならば、わたしから往こう」
砂利に這うほど長い単衣ひとえの裾を引き摺って、一歩ずつ、一歩ずつ、彼女は近づいてくる。
僕は息をすることも忘れて、眼前に広がる現象を、ただ、見ていた。
ぼんやりとしていた顔が、はっきりと浮かび上がってくる。
美しい。恐ろしい、とすら思った。
鋭い切れ長の目尻に、琥珀色の双眸そうぼう。高い鼻筋、薄い紅の引かれた小さな唇。張艶はりつやのあるふっくらとした頬は少しばかり赤らんでいて、反対に、するりと細い首は青白くて頼りない。その首元に、漆黒の勾玉を二つあしらえた首飾りを提げていた。
「怖がることはない」
気づけば、もう、女性は目の前に立っている。一瞬で移動してきたようにも思えるし、途方もなく長い時間をかけてその歩みを眺めていたような気もした。
「……あなたは、」
僕が何かを言いかけて口をつぐむと、女性は凪いだ水面に雫が滴るように、ぽつりと小さな笑い声をあげて、それから如才にょさいなく頬を緩めた。
「たまゆら。そなたは?」
名前を訊ねたかったわけではなかった。しかし、たまゆら、と女性は名乗った。
「……イオリ」
「イオリ……、イオリ。風流な名じゃな」
僕の名前を二回呟いてそう言うと、たまゆらは静かに腕組みを解き、ゆっくりと腰を折った。そして、その深い袖の奥から細く小さな左手を覗かせて、そっと僕の前に差し伸べた。
「どうした、まだ、怖いか?」
「いや、別に」
抗いようもなく、左手が伸びる。
「そうか? こんなにも、震えておるぞ?」
触れたその手は、温かくも、冷たくもなかった。

温度のない手に引かれ、僕は境内の中を進んだ。
握る手と手の結び目の周りを、あの蝶が遊ぶように飛んでいる。
「たまゆら、様は、その――」
「たまゆら、でよい」
「……たまゆらは、仏様、なんですか?」
「仏様。久しぶりに聞いたな。かつては、そんなふうに呼ばれていたような、いなかったような……」
たまゆらは曖昧な記憶を掘り起こそうとするかのように、ふと宙を見上げた。
わびしい砂利の音が、境内に響いては、夜に吸い込まれる。その音に混じるように、彼方の空では花火の弾ける音も鳴っていた。
「昔は、ここも賑わいに満ちていたのじゃがなぁ……」
その懐かしむような口調には時空を超えた奥ゆかしさが宿るのに、その容姿は妙齢みょうれいな女性に見える。
「昔って? たまゆらは、どのぐらい、ここにいらっしゃるのですか?」
「さぁな」
境内の中央辺りまで歩いたところで、たまゆらが不意に立ち止まった。そして、ふと身をひるがえし、円くかれた夜空を見上げると、その昔に想いをせるように、ほっと息を吐いた。
「あの花火も、元来は、わたしをまつるための儀式だったんじゃがな」
「そう、なんですか」
「ああ、昔はもっと派手じゃった。男どもは酒に溺れて、女たちは蝶のごとくひらひらと華やかに舞い踊って、わたしは幼気いたいけな子どもたちに囲まれてな、それはもう、騒がしい夜宴やえんじゃったよ」
哀愁の滲む微笑を浮かべた彼女は、不意に握る手の力を強めた。
そして、次の瞬間、風に押し上げられるように、僕たちの身体はふわりと宙に舞い上がった。
「……!」
驚愕のあまり、僕は声も出せなかった。
「かつてはこんなふうにして、よく子どもたちを喜ばせたものじゃ」
情けなく足をバタつかせる僕を傍目はために、たまゆらは軽快な足取りで空をおよいだ。

足の着く感触を覚えて、僕は瞑っていた目を開けた。
「……ああ、凄いな」
「驚いたか?」
たまゆらと僕は、本殿を貫いていた神木の、そのこずえの先に立っていた。
「ええ、それは、もう……」
見ると、満天の夜空に打ち上がる花火の色彩が、同じ目線の高さにあった。
「はぁ……やはり、疲れるのぉ」
そう言って、たまゆらは鬱蒼と広がる葉の茂みに腰を下ろした。
僕も隣に腰を下ろして、花火を見つめた。
「やはり、何かしら力を消耗しているのですか?」
「んー……、信仰心、とでも言おうか。それが、わたしのすべてじゃ」
「……すべて」
「ああ、この身体も、この力も、すべて」
たまゆらは蝶を指先でもてあそびながら、深く息を吸って吐いた。
「弱まってきている、ということですか」
「ついこの前までは、十人ばかりの子どもたちを一斉に浮かすことができたのじゃがな」
たまゆらの感覚で言うところの「ついこの前」とは、おそらく、僕には想像もつかないほど果てしない年月なのだろう。聞くところによると、たまゆらの霊力は人々の信仰心の大きさが源になっていて、年を経るごとに、その力やたまゆら自身の身体も薄くなっているらしい。
「でも、まだ力が残っているということは……」
「そう、あの花火の下に、まだ、わたしを信仰しておる変わり者が残っているということじゃな」
ひとつの大輪の花を夜空に咲かせて、川縁の祭りは幕を閉じたようだった。
一抹の哀愁と静けさが戻った後も、たまゆらと僕は手を繋いだまま、肩を並べて、しばらく神木の梢に腰を下ろしていた。

「さて、イオリ、迷惑をかけたな。そろそろ帰してやろう」
たまゆらが呟き、そっと立ち上がる。
僕は何も言わずに、立ち上がった。
二人で並んで、そっと虚空に足を踏み出す。そよ風に落葉が舞うように、僕たちはひらひらと地上へ降りていった。
「どうして、僕が呼ばれたのでしょうか?」
近付いてくる地上を眺めながら、たまゆらに問う。
「なんじゃ、釣れた魚が何か言っておるな」
たまゆらはコロコロと笑いながら、切れ長の目をさらに細めた。
神、ではなく仏の悪戯に付き合わされた、と言ったところだろうか。
「花火の音を聞くと、懐かしくなってしまってな、つい人を呼んでみたくなるのじゃ。もう、わたしのために、というよりかは、すっかり人集めの手段に成り果ててしまったようじゃけど、それでもまだ、どこかで未練がましく思っておるのかもしれんなぁ」
「人々の信仰がなくなれば、たまゆらも消えてなくなってしまうのですか?」
「いずれ、森は切り拓かれて、この神殿も再び人間の眼にさらされることになるであろう。その時に、人間が何も思わないのであれば、わたしのいのちも、それまでじゃろうな」
「では、僕が……」
そこで僕は、たまゆらの身体を抱き寄せた。
「僕が、信じ続けてみせましょう」
自分の意思で、彼女を強く抱きしめる。
耳元で、驚いたように息を呑む音が聞こえた、と思ったが、すぐに小さな笑い声が木霊こだました。
「期待しているぞ、イオリ。まぁ、お前が死に絶えるまでぐらいの間では、到底、まだまだ消える気もせんがな……」
そう言って、たまゆらは遠慮がちに、その細い腕を僕の腰に回したのだった。

「ほんと、人間の気まぐれには敵わんわ」
意識が途切れる寸前、そんなことをたまゆらが呟いた、ような気がした。

この時腕に覚えた、儚く弱々しい体躯の感触。それを僕は、死んでからもずっと憶えていようと、そう強く思った。

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