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今、君を想う。

こんばんは、Nabi.です。
今日2泊3日の韓国旅行から帰って来て、まだ少し韓国語が抜けていません…すぐ染まるんだから笑
キティちゃんをこよなく愛する韓国人の友人と、弘大の街で食べて飲んで語り尽くしましたとさ。めでたしめでたし。


実は私には、4歳と1歳の姪っ子がいて。
休職中は時々私が幼稚園にお迎えに行き、子守りをすることがあります。
まだまだ子供だなと思う時もあれば、まるで大人のような口調で話すその姿にくすっと笑える時もあり…彼女達のあまりのピュアさにときめき、自分は色々なことを知りすぎたのかもしれないと思うことも…笑


この前の公園帰りのこと。
綿毛になったタンポポを見つけ、嬉しそうに駆け寄るおねえちゃん。私も小さい頃は綿毛を必死に飛ばしていたなーと懐かしくなりました。

ただ彼女は摘んだタンポポを手に持ったまま、逆に綿毛が飛ばされないように慎重に歩き始めたのです。
綿毛フーしてもいいんだよ?と言うと、彼女は嬉しそうにこう言ったのです。
“ママに見せてあげるんだ〜!”と。

そこで思わずハッとしました。

きっとこれが"愛"で、大人になったら鈍感になってしまうもの。

誰かに何かをしてあげたり、自分と同じ感動を相手にもぜひ感じて欲しいと思うことって愛なんだと、そして大人はそれが愛であることを忘れてしまうのだと思いました。

それからというもの、誰かに何かをされる度、またはする度に、私って意外と人好きだったんだとも気付くようになり…。
その感情を行動を、もっと大切にしようと思いました。


私は以前、「好き」や「愛」がよく分からないとお話しましたが、

家族にせよ、友人にせよ、恋人にせよ、私にとって“大切な人”の定義はこれなんだなと思うようにしました。

このパスタきっと彼女も好きだろうな、も
海辺の朝日を見せてあげたいな、も
その場にいないのにその人のことを考えてしまうのって、確実に愛じゃないですか。
そしてそう思った人はやっぱり大切な人で、もっと大切にすべき人でもある。

愛を少し重いものとして捉え、感情や気持ちを表現することに苦手意識があった私にとって、それらは自分が思っているより相手に伝わりにくいもので…正直今まで上手く表現出来ていませんでした。

でもこの定義に気づいてしまったからには、"気付かれないようにそっと同じ経験をしてもらう"のが私なりの愛情表現ということにしたいなと思います。
言葉にするのはその後ということで…。笑
そして何より訂正すべきは、愛は重さではなく、大事なのは大きさですよね。


最後に。私が何となくずっと好きだったOohyoさんの「Dandelion」という曲。彼女が好きな人への気持ちを表現するのにタンポポを選んだ理由も、今なら少し分かる気がします。

今日はここまでにします。最後まで読んでくださりありがとうございました。

では。

Nabi.

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