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誰にとってのサスティナブルか

国連気候変動枠組条約締約国会議を主題としているCOP(締約国会議)。
地球温暖化対策という環境政策について世界が集まって協議することに実は違和感を持っていた。
もちろん、地球環境を守ることに反対なのではない。
そうではなくて、今世界で喧伝されている地球温暖化ブームにきな臭さを感じていたということだ。

欧州が推進するサスティナブル・エコノミーには、地球温暖化防止以外に2つの隠れた大きな意味があると私は妄想している。
ひとつは、対中国、インド、ロシアだ。
世界の二酸化炭素排出量の4割をこの国々が占めているという。
つまり、これらの3国は二酸化炭素排出量を制限されると経済発展に著しい影響があるということだ。
これからの30年を見通したときに、これらの国々が発展を続けると欧州にとって厄介な存在になる。だから、なるべく抑え込んでおきたい。
そこで排出量制限という足枷を掛けておこうということだ(という私の妄想)。

もうひとつの意味は、欧州が世界のサスティナブル産業の覇権を握ることだ(という妄想)。
例えばヨーロッパの自動車産業は、カーボニュートラルを旗印に、国を挙げて果敢なEV(電気自動車)シフトに舵を切っている。中国は既にEVの普及がかなり進んでいるが、それ以外の国を見渡すと、アメリカのテスラを除いてEVの開発は遅れている。特に内燃機関による自動車産業において世界的優位に立っていた日本が苦境に立たされている。
あるいは発電事業。
サスティナブル発電の普及に先んじた欧州では、関連産業が発展しており世界的優位性が高い。この点でもアメリカや日本はかなり出遅れている。
火力発電における技術的優位性は日本にあるが、そもそも火力発電を否定してきている欧州にとってもはや日本は敵ではない。

要するに、サスティナブル・エコノミーの推進は今後数十年を見据えた欧州復活の狼煙のろしに他ならない。
15世紀から始まった欧州の世界侵略は世界中に植民地を作るに至ったが、20世紀になって開放されて、世界の覇権は上手いことアメリカに奪われた。EUとして欧州全体が結束して挑んだものの、内部のアンバランス調整に手こずって世界を掴む道筋はなかなか開けなかった。
21世紀に入ってそれまで外向的だったアメリカが徐々に内向的になるにつれて、世界の覇権争いが出来る次の大国として中国が注目され脅威となってきた。中国は資本主義の一部を上手く取り入れて経済力を見つけ、世界に通用する技術力を獲得盗取し、強大な軍事力を持つに至った。そしてその力は発展拡大を続けている。触手は大陸を張って欧州にまでたどり着いている。
しかしその裏で欧州は虎視眈々と着々と準備を進めてきたというのが私の見立てだ。EUが出来たのは1993年、1995年に最初のCOPが開催されたのは、いみじくもドイツのベルリンだ。30年越しの計画だとすると空恐ろしい。

サスティナブルというワードは強力な吸引力と説得力を持ち、他のどんな概念もサスティナブルの前ではひれ伏すしかないような権力を備えている。反サスティナブルを唱えようものなら現代では犯罪者扱いだろう。
同様にカーボン・ニュートラル、ゼロ・エミッション、SDGsといったこれらの標語は簡単には抗えない圧力を持っている。なぜなら、反対論者は現代の倫理観が欠如した人非人にんぴにんというレッテルを貼られるからだ。

以前から繰り返しているが、私はアンチ環境問題論者ではない(自分でいうと嘘くさいが)。
むしろ、もし環境問題が欧州の覇権のために利用されているのだとすれば、それに憤りすら感じているということなのだ(だから陰謀論的な私の中だけの妄想であることを切に願う)。
もし仮に、本当は環境のことなど考えている訳ではないくせに、環境は大事だよね、温暖化したら困るよね、じゃあ君も一緒にこっちの方向に進むしかないんじゃない、と同調圧力を突きつけてくるのだとしたら、仮にそうだとしたら、とんでもない曲者だ。歴史を見れば欧州が曲者であることは紛れもない事実なのだから、だまされた振りをして従ったにしても、胸襟きょうきんを開くことは切に控えたほうが良い。

世界の主導権を握るべく国々は足元で火花を散らしている。
単純に地球環境問題として捉えていると足をすくわれることになりそうだ。

おわり


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