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安心な世界は贅沢ですらある

 電車で居眠りしても物取りに遭うことはない。財布を置き忘れても中身がそのままに戻ってくる。車の故障に遭遇することなどまず無い。飛行機や電車はほぼ定刻通り。殆どの人は飢えることもなく、病気になれば診療費負担の心配無く病院で診察を受けられる。
 日本はこうした安心が普通に担保されている世にも珍しい国だ。

 社会やそこに住む人々が、何よりも安心を最優先事項と感じているからではないだろうか。自然災害が多い中で自然と共に生きて来たからだろうか。
 いつ│何時《なんどき》災害に見舞われてもおかしくないという心理が日常の安心を求めるのか。自然の脅威に立ち向かうには手を取り合う必要があるから日頃から波風立てないようにしようとする気持ちが働くのか。

 安心に似た言葉に安全がある。
 安心と一緒に語られる事が多いが、安全と安心は少しニュアンスが違う。
 安心は各人の心が安らいでいる状態、安全は安心が与えられるような社会や組織等の状態とでも言おうか。安全が担保されていれば人は安心出来る。
 交通安全運動や安全の為の活動といった形での取り組みがなされるのは、安全は社会の仕組みの話だからだ。

 しかし交通の安全ひとつ取ってみても分かるが、安全を維持するには相当の努力を伴う。それでも完全に安全な状態にするのは難しい。
 それでも日本が安全と言われるのは、他の国と比較して安全度が高いということ。しかも格段に。
 安全度が高い理由のひとつに他人様の目があるという思想がある。お天道様と言っても良い。つまり、悪行は誰かが見ているものだという思想だ。
 法的に禁じられているとか法的な制裁を受けるという抑止力よりも、誰かが見ているという抑止力が勝っている事の証か。

 最近の都会では、誰かが見ているというよりも皆が無関心という傾向が強そうだから蛮行が謳歌しそうな気もするが、必ずしもそうはなっていない。
 それは、結局のところ他人様が見ているというよりも、金銭的にそれほどの不足がなく、その点で万人が平等だからだろう(一部を除いてという但書が必要だから万人ではないが)。
 多くの人は飢え死ぬような経験をしたことがない。人のものを奪わなくては生きていけないという経験もしていないし、国民として認められないようなこともない。だから、決して裕福ではないとしても、極貧ではない。百均やバーゲンに殺到するからと言って貧困ではない。

 裕福とは程遠く貧しいけれども、生きていくのに困るほどの貧困ではない。これは安心に繋がるのではないか。もっとお金があれば良いのにと思うのは貧乏かもしれないが、明日食べるものが手に入るかどうかを気にしなくて済むのは貧困ではない。
 貧困でなければ、他人から奪う必要は無い。犯罪による罰則と現状維持を天秤に掛けた場合に、犯罪に軍配を上げる人は日本には殆どいない。これが日本が比較的安全であることの理由だろう。
 決して安心は出来ないかも知れないが命の危険を感じるほどの不安が無ければ無為な犯罪を選択する人はいないだろう。

 詐欺が横行するのも私たちの社会が貧困で無い証拠だ。
 詐欺をして取れる程の収穫があるから詐欺が成立する。貧困者から命以外の何かを奪うことは出来ないものだ。
 もちろん貧困が皆無ではない。それに、経済的な貧困でなくても精神的な貧困もある。それでも、それは社会の安全を脅かす程にはならないはずだ。

 安全な社会は安心を生む。
 普段気がついていなくても、私たちは安心の中で生きている。いつかは死ぬと思っていてもそれが明日かも知れないという不安は無い。
 それなのに、これほどの幸せは無いと実感が持てないとしたら、贅沢以外の何ものでも無いのだろう。

おわり
 
 
 

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