二元論の呪縛からの開放へ
好きか嫌いか。
正しいか正しくないか。
善と悪。
どちらに当てはまるかで考えるのは分かりやすいが、人間はそう単純ではない。
YesかNoかで答えられる質問を投げかけた時、YesかNoで答えられる人は少ない。それはどちらかに当てはめて答えることが難しいからだ。
どちらかと言えば「どちらとも言えない」領域の方が多かったりする。
「どちらとも言えない」は文字通りどちらとも言えないのであって、「私のこと好きなの? 嫌いなの?」と問いただされた時に言い淀んでも、それはあなたが悪いのではない。きっと心の中では「そういう問題じゃないんだよ」と思っているだろう。
あなたが重大な決断をする立場にいて、何かの判断を求められたとする。「どうしましょうか?」ならまだ良いが、「やりますか? やりませんか? 決断して下さい」という問い掛けは厄介だ。「やるけれどもそれは今ではない」と言い難くなるからだ。それどころか、解決の道を探るという術を失うことになる。
曖昧な返事をすれば決断力が無い人だと思われるのではないか、という邪念も湧く。本当は時間を掛けて考えたり対応したりしたいことであっても、即断を迫られている気がする。
大切なのは、正か否かのどちらかを選ぶことではない。
より良い道を探り当てることだ。
男と女。上と下。都会と田舎。仕事とプライベート。
実際はそんな簡単に割り切れるものではない。
だからこそ調和という考え方が尊い。
調和とは天地陰陽の気や世の矛盾を調え和らげることだ。何とも素晴らしい考え方ではないか。
陰と陽は一見対立する概念に思えるが、互いが存在することで成り立つ、バランスを取るように作用する、そして、陰が極まれば陽となるというように、もともと一つであるものだという考え方に立っている。
時には分けて考えた方が分かり易いことは確かだが、陰陽調和の考え方は、分かれたものは元々は同じものであって、分けた2つのどちらか一方で良いなんていうことは無いんだということを教えてくれる。
賛否両論を分かり易い形で戦わせるのがディベートだが、使い方を誤ると目的を見失う。
相手を打ち負かすのではなく、調和を目指す議論を心掛けたい。
相手を憎むめば、相手もこちらを憎むだけと気づきたい。
我先にと群がるのではなく、譲り合う余裕を持ちたい。
「お互い様ですから」という言葉を聞かなくなって久しいけれど、そんな心意気を取り戻せれば、世の中もう少し、誰もが生きやすくなるんじゃないかと考えたりする。
おわり
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