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フェイクな存在

 AIによるフェイク画像の精度が格段に上がっている。もはや人間の目では見分けがつかないレベルだ。こうなるとネット上の画像はすべて疑って掛かった方が良い。嘘かもしれないという前提で見るということだ。
 嘘の画像をネット上に投稿するなんてけしからんと言う人もいるだろう。しかしながら、スマホで撮る写真もかなりの画像処理が自動的に行われていて、もはやフェイクに近いくらいだ(実際以上に肌や景色を綺麗にしたり、消しゴムマジックで不要なものを消したりも出来る)。
 写真家が撮る写真だって、モノクロフィルムの時代から現像時やプリントの際に調整をするのは当たり前だったし、現代では撮影後のレタッチは必須になっている。そう考えるとプロの撮った写真もフェイクだ(普通はこれをフェイクと言わずフィクションという)。

 商業的な作品の場合、プロの写真や動画(映画)がフェイクなのは当たり前だ。ホラー映画を見ながら、こんなストーリーはおかしい、人がこんなにバタバタ死ぬ訳がないと言う人はいない。みんなそういうものだと受け入れている。つまり、フェイクが大前提ということだ。
 ところが「記録」を目的とした途端に、そのフェイクは悪になる。テレビでは、演出も「ヤラセ」と揶揄され、報道写真はありのままを写していることが前提条件になっている。しかしどうだろうか。どこまでが真実でどこからが嘘かなんて、人によって場合によって、あるいは文脈によって違ってくる。あなたの真実は他人にとっては真実ではないことはざらにある。だからこそ夫婦喧嘩はこの世から無くならないのだ。

 本当に真実ほんとうのことは何だろうか。
 そういった本質的なといを愚直に繰り返すのが哲学だ。
 哲学的観点から言えば、世に出回る写真が本当かどうかはどうでもよい話だ。というのも、現実世界を写真という媒体に切り取った時点で既に現実の一部分でしかないのであって、その意味で写真は「嘘」でしかないからだ。
 AIが作る画像に問題があるとすれば、それは文脈が無いことだ。AIが人間の営みと無関係であるということではなく、AIが行っているのは世にあるデータの再構築に過ぎず、現実に紐づいていない。つまりAIには現実体験が無い(少なくとも現在では)。
 将来的なAIが感覚器を持ち、それらを統合するかたちで記憶し判断するようになったら、もしかしたら人間を超えるかもしれない。そうなった時にはAIも風邪をひいたり、怪我をしたりすることがあるはずだ。

 AIが人間を超える超えないという話を聞くが、将来的に犬が人間を超えるかどうかというのと同じくらい馬鹿らしい話だ。
 AIが人間を超えるには、データではなく実体験に基づく経験の積み重ねが必要だ。つまり、あらゆるリアルを自身の内部に蓄積することが必要ということだ。それは緊張してお腹が痛くなったり、足の小指をタンスにぶつけて悶絶したりといった肉体的な経験も含めての話だ。
 データにしないと理解出来ない時点で、AIは人間に勝てないのだ。

 もっとも、人間の観点で良いと思えることが絶対的な最善策かどうかは分からない。AIがこの世を支配した際には人間の言う「経験」など全く無価値として切り捨てられるだろう。
 そうなったら、人間そのものがフェイクに過ぎない存在になるのだろう。
 科学も哲学も労働も、無価値になるだろう。
 今のうちに小さな幸せを噛み締めておこう。

おわり

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