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パンデミックで垣間見えた死生観

 新型コロナウィルスによる世界規模の感染拡大は未だ続いている。
 未だというよりも、ようやく安定的に定着してきたと言ったほうが正確か もしれない。
 なぜなら、寄生者(ウィルス)と宿主しゅくしゅ(人間)の関係性はその強さのバランスが重要であって、寄生する側が強すぎて宿主を殺してしまっては本末転倒だからだ。最初のうちは寄生者側も手加減の仕方が良く分からずに宿主の中で増えすぎてしまう結果、宿主を殺してしまうことが多い。しかし、強さを上手く加減して宿主を生かしたまま、その中で増殖して次の宿主へと渡り歩くことが出来るようになると、そこにある種のWin-Win関係が出来上がる。感染した宿主は回復し、寄生者は次の宿に移れるからだ。感染された側にとってはひとたまりもないが、寄生者にとってはラグジュアリなホテルを提供してもらったようなものだ。

 今の話はひとつの個体としての宿主を想定した話だが、寄生者の感染力という観点で言えば、感染しやすさについてもちょうど良い加減が必要である。すなわち、感染しにくければ寄生者は宿主を渡り歩くことが困難になるし、感染することが容易過ぎれば既に満室の宿ばかりになって新たな感染先を見つけるのが困難になる。だから適度な感染性が大切なのだ。これは人と人との接触の程度も関連するから、感染拡大を懸念して宿主が街からいなくなって家に籠もってしまうようでは、寄生者にとっては都合が悪い。
 人々が街に戻ってきた現在はその意味でWin-Winになりつつあると言える。

 新型コロナウィルス感染拡大によって、世界各国の対策の仕方や国民の反応の仕方の違いが見えてきたのは興味深いことだった。
 良く言われるのは、海外では法で縛っても守らない、日本では法で縛らなくても従うといった話だが、これはもう少し深掘りして考えると面白い。
 法によって規制するというのは、現代の国家が社会を維持する方法として適切な対応だ。そして、法で縛ってもどうにもならない事態が発生するというのは、国民が法よりも大切にしている基準があるということでもあり、逆説的だが、国民目線でも法を正しく理解していることの表れだ。
 その一方で、お願いベースでも空気を読んで(周囲を見回して)規制に従う国民はどうだろうか。これには、法への抵抗感が強いから法による規制を行わなかったという面と、国民の空気を読む性質を利用すれば嫌がられながら法によって規制するよりも効果的だろうと読んだ政府の方針がうかがえる。
 どうしてこういうことが日本で起きるのか。
 理由を考えてみると日本社会の特徴が見えてくるのではないだろうか。

 新型コロナウイルス感染対策には、各国の死に対する向き合い方も垣間見えた気がする。
 普通に生きていれば人間誰しも死を恐れる。
 しかしその恐れ方が国によって地域によって違っているように思えた。
 日本ではこれを期に極端な清潔志向が一層進んだ。死という得体の知れない何かからはなるべく距離を取り、視界に入らないようにすべく全力を尽くした感がある。
 政府も報道もとにかく潔癖主義で、欧米での感染上等とでも言わんばかりのやり方とは対照的に見えた。人間死ぬときは死ぬんだという受け入れと、その前提で人生を楽しもうとする心意気。友人と語り合ったりハグ出来ないくらいなら死んだ方がましだよと言っていたイタリア人を羨ましくもあった。
 日本ではそこまで言い切れる人間関係を持っている人がどれだけいるだろうか。

 死を忌み嫌えば嫌うほど生は楽しさから遠ざかる。
 死を遠ざけようとするほど、生は死んだようになる。
 気分が良い時も具合が悪いときも、どちらも生きることの一部。健康と病気とを分けて考えて健康が善、病気は悪、生きるというのは健康のことで病気は死と同じという感覚があるのではないだろうか。
 良いことも悪いこともひっくるめて人生だということを、もう一度受け入れ直す必要があるのかもしれない。

おわり


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