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『体験』を体験する意味

 先日、久々に家族三世代で短い旅行に出掛けた。
 子供たちが大きくなり祖父母が高齢となったことを鑑みれば、この先こんな機会を持てるのも数えるほどだろう。

 旅先で見掛けた子連れの家族らは、宿泊施設が用意した自然の中のアクティビティを楽しそうに取り組んでいた。
 しかしそうした光景に触れた私には、どうしても拭えない違和感がまとわりついてきた。
 予め周到に用意された予定調和なアクティビティを体験することが、果たしてどんな体験になるのか。

 アクティビティに勤しむ家族連れは、何かをする子供と、その子供の様子をフレームに収める親という構図が当たり前のように成立している。
 親がやって見せて、それを見様見真似で子供が取り組み、その子供を補助しながら一緒になってやり遂げる、そんな光景はあまり見られない。インストラクターやガイドに教わっている姿を記録に残すことこそが一番の目的のようだ。親子が楽しい時を共有しているように見えて、親が客観的に子供を観察している光景の中で、子供にはどんな体験が残るのか。

 自然に触れることの価値は、その意外性や偶然性にあると思っている。思いもしなかった発見があったり、思い通りに運ばないことが当たり前にあるのが自然だ。それは予想外の幻滅になることもあれば、予想以上の感動を生み出すこともある。
 目の前の自然をじっくりと観察しているだけで多くの発見があるものだ。世界初の発見である必要は無い。あなたの中の新しい発見であることが重要なのだ。

 自然に限らず、ありきたりの中に発見を見出す習慣にこそイノベーションの種がある。それには体験が必要だ。しかも答えのない体験が。誰かがアレンジした世界の中での体験ではなく、自らが切り拓いて進む世界での体験が。
 そうした体験の積み重ねが経験になる。知識の積み重ねだけでは経験にはならない。知識と体験が結びついてこそ経験となり、それが生きた知恵を生み出す。
 
 子供の頃に、お膳立てされた『体験』だけで育つと、子供はどこかに用意されているはずの答えを探すようになる。そこからは、自分で問う力は生まれない。
 親子で一緒に体験するには、ちょっと危険なくらいが、ちょうどいい。

おわり

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