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低インフレからの脱却は良いことなのか

 最近耳にする物価高は、需要の拡大ではなく供給の縮小によるインフレの影響だと言う。

 需要と供給のバランスによって価格が決まるという話は、何故か誰にでも理解し易いので当たり前のように語られる。しかしこれは世の中が理想的な状態の場合の理論値で、実際にはもっと複雑な事情によって歪められている。
 例えば先頃私達が経験したばかりの転売屋買い占めなどが起きたときを考えてみる。買い占めという言わば架空の需要によって供給不足に陥るから市場価格は上昇するが、それが適正な価格とは誰も思わない。それでも買う人がいることで、その不当な価格は嫌々ながらも人々に是認されてしまうことになる。
 この時、本来あるべき理論価格と実際に購入出来た価格の差額は転売屋の懐を潤し、多くの人の懐を干乾びさせることになる。
 マスクを生産した正直者よりも、上手いこと値段の吊り上げに成功した少数者の方が何倍も儲かり、利用する側の殆どの人は損をする。

 こう書くといかにも転売屋だけが悪のように見えるが、物やサービスの価格は大方おおかたこんなものだ。何らかの形で歪められ、モノ本来のあるべき価格とは乖離かいりしている。その乖離部分をかすめ取ったほうが真面目に働くよりも随分と儲かるから、それを生業なりわいにしている人々がいるというだけだ。

 世の中には既得権益を帯びた利権団体があって、それはあらゆる領域に広がっている。そうした団体は自分たちのコミュニティが社会経済の中で比較優位に立つためにあるのであって、価格の歪みを意図的に作り出し、それによって生ずる儲けを精力的に食べている。
 こう書くと、あたかも利権団体はけしからんとなりそうだが、そんなこんながうごめいているのが実際の社会だ。

 かすみ(価格歪みによる儲け)を創ったり食べたりすることは倫理的にどうかと言えば、もちろんアウトだろう。しかし社会は元々、倫理的にセーフなものだけで出来ているのではない。
 もっとも、一部の人々やコミュニティだけに社会全体の利益が偏るようなこうした仕組みや組織が無くなれば、社会は今よりもずっとずっと住みやすく生きやすくなるだろう。

 難しいのは、こうした利権団体が社会悪だとしても、その構成員ひとりひとりは普通の人々の場合が多いということだ。
 例えば、医療業界が利権まみれだと言われることが多かったとしても、それぞれの医師は全くもって普通で、むしろ倫理的ですらあったりする。個別具体的には悪いことをしているのでは無いし、社会にとって良いことをしている。つまり悪気は無いし、正義に満ちている。
 それでも、団体として社会と対峙たいじすることで多くの霞を創ることになってしまう。どうしても別の団体との間にバランスの狂いが生じてしまうからだ。
 団体の構成員は正義に基づく団体固有の空気に染まるうちに、それが当たり前だと信じ、社会標準となっているはずだと思い込んでしまう人がいる(もちろん全員ではない)。
 こうしたことは、全ての利権団体に当てはまると思っておいた方が良い。

 資本主義は、資本金を得た企業が毎年成長することを義務付けた仕組みだ。成長無くしては撤退を余儀なくされる。だから、資本は拡大するために局在化し、少しでもあるところから絞り取るハイエナのように振る舞うことになる。
 その結果、絞り取られた側との間に出来た溝の高さの分だけ「成長」することになる。

 この仕組みは元々、社会が豊かになる為の方法論として発展してきた。ここで言う社会は、当初、今からすれば比較的狭い範囲の小さなものだった。だから、熟した果実を分け合う「社会」は手の届く範囲、目の届く範囲だった。
 それが今では国全体はおろか、世界に触手を伸ばす企業が沢山ある。
 こうなると企業側も、その存在効能を全世界に向けてアピールする必要に迫られる。それのためにSGDsに代表されるCSR活動が利用されたりもする。これは確かに社会的意義がない訳では無いが、何処か遠い世界のことのように感じられる。
 つまり、私達の幸せとは違う世界のことのように感じる。


 低インフレから脱却することは、日本が再び世界の中で「成長」する組に参画することを意味する。これまでは「成長」することこそが正義と思われてきたが、それはそれが資本主義の本能だからだ。
 「成長」が止まった社会は、何かと何かが均衡しているということなのかもしれない。そのバランスを意図して崩すことが果たして私達の幸せにつながることなのか。
 等しく貧しいのが今の日本と言われるけれど、問題は貧しいか豊かかではなく、人々が生き生きと幸せに暮らせているかだ。
 再び「成長」に舵を切ることは資本主義の本能に従うことであるから、一部の幸せな人と多くの不幸せな人を生む可能性もある。
 何が正解かは誰も分からない。
 「低インフレから脱却する」ことが目的ではなく、人々が幸せになった時の結果であるのだとしたら、それに越したことはない。けれど、もしそうでないのであれば、まずは幸せになることを目指した方が良い。

おわり
 

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