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ジェンダー

 あなたは男だろうか? 女だろうか? それともそのどちらでもないだろうか?
 性別を問われたときに、その回答はどんな観点で聞かれているかによるだろう。
 出生したときの生物としての身体の区分けについて問われる場合もあれば、あなたの性自認を聞かれる場合もある。しかし一般的には性自認を意識して聞かれることは殆どないのが実情だろう。多くの場合、生物学的にオスの身体かメスの身体かを聞かれる。性自認もそれと同一という暗黙の了解があるからだ。

 しかしそもそも、なぜ性別のことを聞く必要があるのか。例えばアンケートなどで性別を回答する欄がある。最近では男女以外の選択肢が設けられていることもある。これは性別による結果の差異を確認することが目的だろう。
 しかし、男性はこういう傾向、女性はこう、という結果が得られたとして、それは大多数の人の傾向を示しているに過ぎない。そして、そこには生物的な性と性自認は一致しているという暗黙の前提がある。
 
 ジェンダーの話は一括りには語れない。
 例えば高校生で、生物学的には男性だけれどもスカートを履きたいと思っている人がいるとする。その場合、性自認も男性の場合は単に服装の趣味の話ということだが、性自認が女性の場合はどうだろうか。心が女性なのでスカートを履きたいと思っているのだろうか。そうだとしたらその人は、女性はスカートを履くものと捉えていることになる。あるいは他の多くの女性と同じ格好をしたいと思っている。
 想像だが、男性がスカートを履くのは気持ち悪いと思う人が男女を問わず相当数いる。スカートを履いて良い男子はカワイイ人だけと言われるのだとしたら、それもやはりスカートが女性性と強く紐付いているということになるのではないか。

 話の原点は、生物学的な性と性自認が一致している人が多数派で、社会や文化はそのような性差を前提として形作られて来ているところにある。だから、そうでない人はマイノリティーであるが故に差別や区別の対象になる。
 難しいのは、人として差別は良くないよねという人権としての非差別を語る場合に、ジェンダーの話は微妙に噛み合わないことだ。なぜならジェンダーはどこまで行っても、本人や周囲の認識の問題だからだ。
 多くの人と違うことを個性と言わず異常と捉えるのはある意味仕方がない。常と異なることに変わりないからだ。しかし、個性的(異常)だからと言って気味が悪いと思うのだとしたらそれは何かしらの思い込みがある。
 男はスカートなんか履かない。男は髪を長くしない。女はスカートを履く、女はスポーツ刈りにはしない。そういった分類は、世の中にいるのが男と女のどちらかという思い込みがある。生物学的性差とファッションは本来関係無いはずなのに。

 無意識に植え付けられた差別感は簡単には無くならない。だから本当の意味での自由はまだまだ遠い先にある。

おわり

 
 

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