見出し画像

道を歩き続けることこそが”成功”

 成功するまでやれば失敗は意味あるものになる。成功するまでやらないから失敗が確定してしまう。
 そんな言われ方をする。
 でも、失敗を続けているその道が成功に繋がっているという保証は全くない。一度の失敗で諦めて、別の道を選んだことが成功に繋がることだってある。一つの目標にしがみつくことだけが正解ではない。
 成功するまでやらないから失敗が失敗のまま終わってしまうという物言いは、結局のところ成功者だけに許された言葉だ。成功していない多くの人がいるから一握りの成功者が現れるのであって、無闇に諦めずに続けろと言うのは決して合理的ではない。

 成功の尺度は様々で、ある人にとって小さな成功と見做されるものが、ある人にとっては十分立派な成功と思えることはある。成功かどうかは他人が決めることではなく自分が決めることと定義したとするのなら、成功を目指し続けることに意味があるというのには一理ある。その人の人生はその人のものなのだから、他人の視点で考える必要はないはずだからだ。だから他人から成功者と見られたいという願望が強い人は目指す方向を見誤る可能性があると思った方が良さそうだ。
 成功の反対が失敗なのではないし、失敗の反対側に成功があるのでもない。成功地点という明確なゴールは案外どこにも無くて、自分の決めた道をただ歩き続けることだけが成功と言ってもよいかもしれない。登山で言えば山の頂上だってゴールではなくただの通過点なのだ。

 医学を学んで人を救いたいという目標を叶えることが成功だとしたら、その手前に設定される目標は医者になることになるだろう。医者になる目標を達成するためには、大学の医学部に入ることになるだろう。大学の医学部に入学するためには国公立、私立、海外など幾つかの選択肢があるだろう。
 このように目標設定は時間的に遠いところから近いところに降りてくるようにして行われるのが適正な順番だろう。仮に近いところに最終目標があったとするならば、その人の人生はそこで終わってしまう。その先の目標はその時に改めて立てるということもあり得るが長い目で見たほうが途中での方向転換もし易いはずだ。

 東大の医学部に入って医者になりたい。
 もし、その先の目当てが無く、それ自体が最終目標だったとしたなら、東大受験に足る学力が無いことを知った時点で絶望するしかないだろう。本当は医師国家試験に受かることが当面の目標だとすれば、何も東大である必要はないはずだ。しかし、「東大医学部」しか正解ではないと思いこんでしまったとしたら、その可能性が無くなった時点で生きる目的を見失ってもおかしくない。

 若いことの特権は、可能性の大きさにあると私は思っている。選択肢の多さと言い換えても良い。若ければ若いほど、将来なれる選択肢は広いはずだ。幼稚園児は戦隊ヒーローになれる可能性もあるし、有名パティシエになれる可能性もある。Youtuberにだってプロゲーマーにだってなれる可能性がある。もちろん、50歳を過ぎてもそれらの可能性は無い訳ではない。しかし、言うまでもなくオッサンが戦隊ヒーローになれる可能性に比べたら、子供の可能性は無限大だ。
 高校生の持つ可能性は、幼稚園児に比べれば狭くなっているとは言え、まだまだ大きい。色々な道を選択する余地がある。もし無いように見えたとしても間違いなくある。

 進路に悩んだり迷ったりしている高校生や大学生は、自ら可能性を縮めてしまうような考え方をしないようにして欲しい。25歳、30歳、35歳、40歳と年を重ねる程に急速に縮んでいく可能性の広がりに比べたら、大学生ですら可能性を秘めるどころか、可能性しかない位だ。
 廻りにいる大人たちは是非、彼らが盲目的にならず広い視野を保って歩けるよう導いて上げて欲しいと切に願う。
 他人の目から見て、道の選択肢を指し示してあげることがガイドの重要な役割のひとつと思うからだ。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?