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『二人の記憶』第97回 そうじゃなくて

「そろそろ考えなきゃだなぁ」
 食卓でノートPCに向かって作業をしていた亜希子が伸びをしながら突然言った。
 夕食後子供が寝てからの時間帯は、二人してこうして向かい合ってPCを開き仕事をしていることが多かった。
「何を考えるの、アコ」
「いや、日中に子供がいる中で仕事をするのがキツくなってきたなと思って」
「だよね」
 昇太郎はタイピング途中で宙に浮いたままの指の行き所を探しながら、右手でコーヒーマグをつかんだ。
 かいの出産までは仕事を受けるのを絞っていた亜希子だが、このところ少しずつ仕事の受注を増やしてきていた。今は、あおいが幼稚園で海は来年から幼稚園だから、日中は海が亜希子と一緒にいる。
「カイくんがいると、なかなかねぇ。もうちょっと何とかなるかなーと思ってたんだけどね」
「保育園にする?」
 子供が出来た頃、幼稚園か保育園かで二人で相談したことがあった。二人とも幼稚園出身だったせいか、亜希子も保育園ではなくて幼稚園がいいと言っていたのだが、実際にやってみると大変だったということだろう。
「いや、そういうことじゃないの。小さい頃は母親と過ごす時間が大切だと思うから一緒にいるのは全然構わないんだけど、アオくんがいい子だったってこと」
「アオくんが、いい子?」
「何だかんだ言ってアオくんは気が利くって言うか、今思い返すと私が仕事をしているときは余り煩わせないようにしてくれていたんだと思うの」
「一歳児が?」
「カイくんで分かったの。アオくんの時は楽だったんだなぁって」
「カイは配慮が足りん、と」
「ううん、多分そうじゃなくて、これが普通の子供なんだと思う。そうじゃなくて、アオくんがえらかったのよ」
「いま、そうじゃなくてを二回言った」
「いいじゃない別に」
「そんなにアオくんがえらいかどうか、あやしいもんだぞ。この前、親の見ていないところで弟を虐める宣言をしたんじゃなかったっけ?」
「あ、そうだった。いや、そうじゃなくて、きっとあの子は頭がいいんだと思うの。気が回るというか親の反応を伺うというか。だから、逆に可哀想かも」
「でも奴は結構マイペースなとこあるよね」
「そう、だからまだいいのよ。そうじゃなきゃもう病んでるって」
「どうでもいいけど、そうじゃない、が多いな今日は」
 せっかくいい話してるのに、とテーブル越しに昇太郎の肩を小突いてきた亜希子から、結局、何を考えなきゃなのかを聞きそびれていたことに気がついたのは、皆が寝静まった頃にようやく仕事が終わって、昇太郎がPCを閉じた時だった。

つづく

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