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「読書」のススメ

 脳へのインプットとアウトプットをバランス良く行うことが大切という昨日の記事で、インプットの例として読書を挙げた。
 しかし、読書の全てがインプット活動かというと実は違う。

 世の中には、読書なんか不要だという人と読書はとても有用だという人がいる。どうしてこんなにも2分された見解が併存しているのだろうと思っていた。
 実はこの見解相違の理由は単純で、この二人の言う"読書"という言葉の意味するところが違っているからだと気付いた。

 紛らわしいので、読書が有用だという人の言う読書のことを、ここでは「読書」と括弧付きで書くことにする。

 読書不要論を唱える人は、読書を情報のインプット手段と捉えている人だろうと思う。情報入手手段として読書を使うことは全くもって間違っていないが、「読書」の持つ機能の一面しか利用していない。本に書いてあることを知識として脳に蓄えるだけだとすれば、確かにそんな読書は不要かもしれない。
 誰だって辞書の1ページ目から全て読もうとはしない。必要な時に必要な部分を読めば良い。でもそれだったら知っている人に聞けば良いし、今ならネット検索もある。そう考えれば読書不要論となるのも分かる。

 例えば取扱説明書。
 何かの製品を買うと、まずは取扱説明書を1ページ目から読み始める人と、説明書なんか放っておいて、まずはその製品を使い始める人がいる。私が知っている読書不要論者は後者だった。説明書なんかあんなもん、分からないことがあったら調べるものだ、と言っていた。
 何を隠そう私は説明書を最初から読む派だ。
 弁明するつもりでは無いが、説明書を1ページ目から読むのと辞書を1ページ目から読むのとは全く違う行為だ。私が説明書を読む時、そのスタンスは「読書」と同じなのだ。何を馬鹿なと思うかもしれないが、取説はその製品の機能が書いてあるのみならず、製品を開発した人の思想、そのメーカーの思想、そして製品が完成に至るまでのストーリーが凝縮されている。
 それを読むことによって私は、その製品へより一層の愛着を抱くようになる。

 取説の話はさておき、「読書」が有用だという人が考えている「読書」とは一体何なのか。
 結局のところ本に書いてある情報を得るだけのことではないか。それ以上の何があると言うんだと、お思いかも知れない。
 もしそう思っていたのだとしたら、それは飛んだ見当違いだ。

「読書」は脳に何かをインプットするだけの活動ではない。
 脳に文字情報を入れるところまでは恐らく読書不要論者が考えていることと同じだ。しかし「読書」はそれで終わりではない。むしろそれはスタート段階だ。
 文字として脳にインプットされた情報を、脳の中でイメージに変換し、あるいは別の言葉に変換し、脳が既に持っている別の情報と照らし合わせたり融合させたりしながら、その結果を再び脳にフィードバックする。フィードバックされた情報と本の情報は再び結合されて次のフィードバックが起こる。こうしてフィードバックのループが延々と続くのが「読書」だ。

「読書」をした時に起きるこのような脳の活動は、それが小説でも論説でも、学術論文でも、難解な哲学書であっても同じだ。
「読書」は文字を読んで文字情報として蓄える行為ではなく、脳への情報の入出力を自己回帰的に行うことで脳を活性化させる行為だ。これによって、脳内には新たな神経ネットワークが構築される。

 脳への情報の入出力とそのフィードバックが行われることで脳内神経回路のネットワークが書き換わったり構築されたりすることは、一般的に経験と呼ばれている。経験とは知識の積み重ねではなく、神経ネットワーク構築の歴史ということだ。

 こうして見てみると、「読書」は脳にとってある種の経験に等しい。すなわち「読書」によって得られる仮想体験は、人間にとって実体験と同等の経験ということだ。
 擬人的に言うと脳は外界を視ることは出来ない。脳にとっては全て神経細胞のネットワークを通じて入力される信号に過ぎない。そして入力信号を出力信号に変えることによって脳内回路のネットワークが一部強化されたり、一部は退化したりする。それが経験だ。
 脳にとっては、入力情報が実体験によるものか(読書による)仮想体験かは分からないから、すなわち「読書」からは実体験と同じ経験が得られる。
 これが「読書」が有用という大きな理由だ。

 ここで挙げた「読書」は独りで読むことを前提としていたが、実は「読書」には独りで読む以外の方法がある。その効果はより大きな経験を生み出すのだが、紙幅が尽きたため別の機会に書こうと思う。

おわり

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