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”壊れた”No.1風俗嬢が織りなす、醜くも暖かく、どこか切ない人間ドラマ『ちひろ』

※本記事は、「マンガ新聞」にて過去に掲載されたレビューを転載したものです。(編集部)

【レビュアー/小禄卓也

僕は、風俗にとても興味を持っている。

職場が道玄坂にあるので、昼ごはんの時や、帰宅する時など、無駄に円山町の風俗街を通るのが大好きだ。

実際にお店には行かないが、僕が今まで見てきたデータから、風俗嬢がよく持っているかばんや服装など、勝手に予想して眺めるのが趣味でもある。

前回のレビューでも、そんな風俗にまつわる漫画『匿名の彼女たち』を紹介したが、今回紹介する漫画も、偶然にも風俗に関連するものとなってしまった。それは、安田弘之先生の『ちひろ』である。

安田先生といえば、ドラマ化もされた『ショムニ』を思い出す人も多いかもしれないが、この『ちひろ』も負けず劣らず名作だと思う。そして、主演・永作博美さんとかでぜひドラマ化してほしい。


「どんなダメ人間でも、受け入れてあげる」

風俗好きの主人公がお客さまとして全国各地の風俗を歩いて回るのが『匿名の彼女たち』ならば、『ちひろ』の場合は風俗嬢が主人公の物語。

ファッションヘルス「ぷちブル」に勤めるナンバーワンヘルス嬢のちひろは、店にどんな客が来ようと手を抜かない。指名客を増やそうとアピールに必死な他の風俗嬢と比べて、一見自己主張の弱い無欲なタイプかと思いきや、その実、自分が一番欲深くしたたかであったり。

「壊れてなきゃあなたを愛せないもの」とか言いながら客にサービスを提供してみたり。見た目からは想像できないが、どこか普通でない女性だ。

「どんなダメ男でも、受け入れてあげる」というのが、『ちひろ』上巻の帯に書かれていた。しかし、この作品を通してちひろに魅せられるのは、男だけではない。

例えば、同じピンサロで働く新人のはるか。

彼女はちひろに憧れ、「自分も垢抜けてちひろさんのようになりたい」という思いから髪を染めたりメイクを変えたりするが、そんな上っ面だけの変化ではなく「自分らしさとは何か」「客がなぜ自分を選んでくれるのか」をしっかり見極めるように教わり、改めて自分を見つめ直し始める。

ちひろ1

※台風の日にやってきた、家族に問題を抱える常連客に対する会話も、客の心に突き刺さる。妙な説得力を持っている『ちひろ』(安田弘之/秋田書店)上巻より引用


同作に登場する人物は、老若男女問わず、そんな彼女の振る舞いを通して自分と向き合わされているような感覚に陥る。自分が触れられたくない部分を素手で掴まれ、えぐられる。それでも彼女の言葉に、素直に聞き入ってしまう。

ちひろは「自分の見えているものを、相手に、率直ではあるけれど、”やわらかく”伝える」ことで、「相手が真摯に、本当の問題に向き合うきっかけを与える」存在に描かれている。

裸のつきあい(突き合い)が羞恥心をかき消し、心も丸裸にしてしまうのだろうか。ピンサロという異空間で展開するドラマが、ストーリーにさらに説得力を加えているのではないかと感じる。残念ながら、僕はピンサロに行ったことはない。

随所に垣間見えるが、誰も知らないちひろ自身の物語

一方で、そんなちひろ自身の過去については多く語られることはない。彼女がどんな人生を歩み、なぜ今風俗の世界に身を置いているのか。時折、彼女の胸の内を垣間見ることができるのだが、あくまで断片的な情報しか得られない。

その思わせぶりな素振りに、彼女への興味はそそるばかりだ。そのミステリアスさがまた、本作の一層の魅力となっていく。

ちひろ2

※何も不満がないのにヘルス「ぷちブル」を辞めるちひろ。この掴みどころのなさも、彼女の魅力である『ちひろ』(安田弘之/秋田書店)上巻より引用

「大切なものを失くす痛みで 私の心は息を吹き返す」

僕は、彼女が心の中でつぶやくこの一言が忘れられない。

幸せに感じる時間が愛おしくも悲しいと感じてしまう人が、世の中にはいるらしい。ちひろも、そんなことを思ってしまう女性の1人なのかもしれない。彼女のこれまでの人生でも、もしかしたらたくさんの「喪失」を経験してきたのかなぁなどと、僕は想像を膨らませる。

僕の頭の中で、ちひろが増殖する。場末のピンサロにいくと、家族よりも親友よりももっと自分のことをよく見て、理解してくれて、率直な意見をくれる。ちひろはそんな魅力のあるキャラクターであり、そこが多くの人の心にきっと爪痕を残すのだろう。誰でもそんな場所を1つ持ちたいと思うのではないだろうか。

この『ちひろ』は2007年に初版が発行され、最近になって再版されている。

現在は続編として、風俗の世界から足を洗ったちひろが地元の弁当屋さんで働く姿を描く『ちひろさん』が絶賛連載中。こちらもいっそうおもしろくなっているので、ぜひ改めてレビューを書いてみたいと思う。

ちなみに、これは完全に余談だが、作者の安田弘之先生が運営する「ショムニ帝国 会議室」という掲示板で、そこにコメントを投稿すると、ほぼ確実に先生からのレスが返ってくるという素敵すぎるサイトがある。興味がある方はぜひ覗いてみてほしい。