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精神アンチエイジングストーリーで、忘れてしまったあの「想い」を取り戻そう!『溺れるナイフ』

『溺れるナイフ』は、自分がとっくに失ってしまった、美しくて純粋で、初々しい気持ちを思い出させてくれます。

あまりに眩しすぎて、うまくいかない。子どもの頃の恋ってこんな感じだったな、と思い出します。

主人公は、小学生で読者モデルをしている夏芽(なつめ)。

彼女は突然、親の都合で地方の町に引っ越すことになります。

そこで出会ったのが、コウちゃん。

映画では菅田将暉さんが演じていて、それはもう神々しいほど美しかったですね。映画は菅田将暉鑑賞用と思って下さい。原作とは違う楽しみ方ができます!

で、コウちゃんは闇を抱えているのかいないのか、優しいけど乱暴で、何事にも躊躇しない、たいへん魅力的な少年です。

なんでもできて、傲慢で、怖いものがないように見えるコウちゃんに、夏芽は激しく惹かれていきます。まぶしくて、手に入らなそうで、夏芽は「負けっぱなし」です。触れられそうで触れられない距離にいる、光り輝くようなコウちゃん。

作者・ジョージ朝倉さんの初期作品『恋文日和』に、こんなセリフがあります。

「宮下(主人公)は、こんな田舎にいちゃいけない美女で、どこか近寄りがたくて、しかも母親は男出入りが激しいらしく、噂話の恰好のネタにされている」

娯楽が少なく、無責任な噂が飛び交う田舎の町に、光り輝くような美少女。

夏芽もまた「こんな田舎にいちゃいけない」美少女でした。そして、美少女ゆえに、事件は起こるのです。 ある祭の日、夏芽はキモヲタに襲われてしまいます。

コウちゃんに心の中で助けを求める夏芽。思った通りにコウちゃんは来てくれます。だけど、夏芽が思っているようには助けてくれなかったし、キモヲタを退治してはくれなかった。

コウちゃんは夏芽の「神さん」のはずだったし、「すべて手に入れて、無敵で素敵、力を、光を、思いのままに」できるはずだったのに……。コウちゃんの光は失われてしまいます。

世間の目と夏芽の心の傷により、2人は無邪気ではいられなくなってしまうのです。

『溺れるナイフ』はタイプを分類できない複雑さ

少女漫画は、めちゃくちゃおおざっぱに分類すると、「胸キュン恋愛系」と「そうじゃない系」に分かれます(ホントにおおざっぱだった!)。そうじゃない系には、ドロドロ、ノンフィクション、ミステリー、問題提起ものなどがありますね。

胸キュン恋愛系は、もう最初っから“くっつく”ことがわかってる男女がヤキモキしながら、女子が2ページに1回キュンキュンしたり、単行本1冊ほとんど泣いてたりする、そんな感じ。10ページ使って、ぽつりぽつりとポエムを詠んだりすることも。人気タレントを起用して映画になるのもこのタイプが多いです。

少女漫画が好きな人でも、この「胸キュン恋愛系」派と「そうじゃない系」派とに分かれるように思います。しかも、胸キュン系が好きだった純粋な女子も、そのうち「あ、こりゃファンタジーなんだな」とか気付いたりして、そうじゃない系派に移行したりします。

ところがこの『溺れるナイフ』は「胸キュン恋愛系」でもありながら「そうじゃない系」の要素もたくさんあるんです。

人間のどろっとした暗く汚い部分もありながら、でもドロドロ系というほど徹底してもいなくて、全体としてはポップです。適度に笑いもあって、暗くもキュンキュンにもなりすぎない。退廃的で、少女マンガにしては暴力シーンが多い。

読んでいると、心がザクザクと切り刻まれるような思いがします。そしてラスト。たった一言のセリフで幕を閉じるのですが、それだけでいろんな想像をかき立てられます。たった一言で、人間の20年、30年が表現できるなんて……!!

『溺れるナイフ』というタイトルもいいですよね。ナイフとは、夏芽のことなのか、コウちゃんのことなのか。確かに、ナイフは水につけたら溺れそうです。鋭利なナイフも、水の中なら怖くないかもしれない。

コウちゃんに溺れて無力化してしまう夏芽のことなのか、世間という海に溺れているコウちゃんのことなのか。

もしこのタイトルが「田舎で出会ったコウちゃんを好きになった」とか「大好きなコウちゃんはなかなか振り向かない」といったタイトルだったら、もっと中身はわかりやすかったはずです。タイトルからして「うぅむ」とうならせられます。

『溺れるナイフ』はすごい作品なんです。ほんとうに。

WRITTEN by 和久井 香菜子
※「マンガ新聞」に掲載されていたレビューを転載
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