ネガティブな僕が子供に「夢は叶う」と言う理由

●キラキラした夢物語が苦手

いつからだろう?
ラストシーンで「夢は叶うんだよ!」って感じの台詞を主人公たちがキラキラして語るような物語を冷めた目で見てしまうようになったのは。

きっと、いくらフィクションだとはいえボクらが生きるシビアな現実と比べた時に、あまりにリアルじゃないと感じるからだろう。
新型ウイルスの影響で近所の飲食店は潰れ、オリンピックが延期になり、甲子園をはじめ学生のスポーツ大会さえまともに開催できなくなった2020年の夏。「夢は叶うよ」なんて本気で言い切れる大人がいるだろうか。


現に僕も今年手がける予定だった脚本や演出、出演を予定していたエンタメの仕事は軒並み中止や延期になった。四十過ぎて、ほぼニートのような状態で長すぎる夏休みを持て余した。

とはいえ、今年から僕が冷めた目で夢物語を見るようになった訳ではない。ずっと昔からだ。なんなら今の方がマシになったくらいだ。

…じゃあ、いつから?…

記憶の渦を泳いでいくと、幼い頃のある景色が蘇ってくる。

●お爺ちゃんの呪文

子供の頃、まだ幼稚園に入る前くらいの時。
うちの家族は母方の祖父母と同居しており、僕はお爺ちゃんっ子だった。

休みの日の午後。よくお爺ちゃんはTVで放送されている古い西部劇を好んで見ていた。
幼い僕は面白さが分からず「それ何がおもろいん?」と聞くと、お爺ちゃんは

「ウソの話やからや。だから馬鹿馬鹿しくて面白いねん。現実でこんなに良い奴と悪い奴がハッキリ別れる事なんて、ないからな。だいたい実際に自分で正義の味方やって言う奴ほど怪しい奴はおらんで」

物語を全否定するような感想だ。なのに面白い!?その時の僕からしたら不思議過ぎる答えを未だに鮮烈に覚えている。
それ以来、僕は正義の味方の存在を疑うようになった。今思えば、これが冷めた目で夢物語を見る原点かもしれない。

しかし、だからといって祖父が子供の夢を壊そうとする人だった訳ではない。むしろその逆だった。ただ、適当な嘘はつかなかっただけだ。

こんな思い出もある。
幼稚園の頃。僕は走る電車を見るのがとにかく好きだった。
祖父はそんな僕を連れて、近所の線路を見渡せる道まで散歩に行ってくれた。

たぶん何時間も見ていたと思う。なかなか電車が来ない時間帯があって、「まだ?ねぇまだ?」と愚図る僕にお爺ちゃんは「じゃあお爺ちゃんが呪文を使うたるわ」と手帳を開いて「今、呪文を確認してんねや」と難しい顔で何やら調べていた。
暫くすると、「もう来るで。3,2,1…えいっ!」とお爺ちゃんが指さした方向から電車がやってきた。

きっと手帳で時刻表を確認していたのだろう。そもそも何分も確認していた呪文が「えい」の二文字とは、おかしな話のなのだが。幼い僕からしたら尊敬と驚愕で胸がいっぱいになり、とんでもなくスゴいお爺ちゃんが自分にはいるんだと誇らしかった。

祖父は適当な嘘はつかない。そのかわり、ちゃんと成功する嘘はつくのだ。

●今年の夏の不安

2020年の夏。僕はそんな自分のルーツに思いを巡らし、たどっていた。

ベビーカーを押しながら考える。だから夢物語を冷めた目で見ちゃうんだなって。なのに私生活では面白い奇跡が起きるんじゃないかって夢見がちなんだなって。
そんな矛盾した人間性を形成するのは、ちゃんと幼少期の体験が矛盾無く影響していた。

遠くから電車の走る音が聞こえる。
ベビーカーの息子が音の方向を指さして「あっち、あっち」と訴えてくる。息子は最近走る電車を見る事にハマりだした。やっぱり親子だ。

ふと思う。
彼が近い将来にもう少し言葉が話せるようになった時、僕は言えるのか?

夢物語なんて嘘なんだと。

●叶わいでか

再び思い出の光景に足を踏み入れる。
それは小学生の頃の夏休み。

その日僕はお爺ちゃんと二人で留守番をしていた。
僕は居間で自分の考えたオリジナルの漫画を描いていた。当時の僕の夢は漫画家になる事だった。
お爺ちゃんはTVを見ていた。その日は西部劇ではなく甲子園の開会式のニュースが流れていた。

TVではレポーターの女性がこう言っていた。
「ココにいる球児たち皆の夢が叶いますよう」
すると、お爺ちゃんが思わずといった感じで、TVに向かってこうツッコんだ。
「いや、そしたら誰の夢も叶わへんがな!」

確かにそうだ。皆が優勝したくて集まっている大会なのだから。
僕は妙に納得してしまい、そのいかにもお爺ちゃんらしい発言を聞いて大きく頷き、「ほんまやなぁ」と言って笑った。

しかし、その日のお爺ちゃんは一緒に笑いはせず、机にある描きかけの漫画を見つめながら僕の名前を呼び、こう言った。

「かずちゃんの夢は叶うで。一生懸命に頑張ったら叶うからな」

僕からしたら唐突な展開に、直ぐに何の話か分からずキョトンとしていると、お爺ちゃんは“叶わないわけがない”という意味合いで、こう呟いた。

「叶わいでか」

●違和感と疑問

何故だろう?祖父らしくない。あの時の違和感は大人になった僕に大きな疑問を残す。
祖父は子供相手でもロジカルに話す人だったのに。オチのある嘘しかつかなかったのに。この話のオチは?
聞きたくても、もう聞く事はできない。祖父は十年以上前に亡くなった。

ベビーカーは電車の走る線路が見える場所に到着していた。

しばらく待っていても、いっこうに電車は走ってこなかった。息子は待てずに愚図りだしていた。
でも、僕の手帳には呪文が書いていない。中止になった予定が記されているだけだ。

考えてみると、祖父はエリートだった。若い時に独学で英語を勉強して、戦前の日本では珍しく仕事で渡米もして、戦後は有名大学の教授になり英語の教科書も作っていた。

本当は影響なんて受けてないのかもしれない。
僕はダウンタウンみたいになりたいと十代の頃にお笑い芸人になり、日本を代表するような作家になるといって演劇や映画の世界に飛び込んだ。
どちらにもなっていないのは、新型ウイルスのせいではない。
それでも続けている僕の生き様こそが実は安っぽい夢物語で、もっと冷めた目で見つめ直さなければいけないのだろう。

まだ電車は来ない。息子は泣きそうになっている。
諦めて引き返そうとしても、彼は首を横に振って帰りたがらない。
家に携帯を置いてきた僕は時刻表も分からない。

もしも今、彼がもっと大きくて、夢が叶うか聞かれたら。僕は言い淀んでしまうだろう。
僕は夢を叶える呪文を知らない。

●戦争の思い出

お爺ちゃんも毎年言い淀む事があった。
僕が小学生の時、夏休みの宿題で『お年寄りに戦争の話しを聞いて作文を書く』という課題で質問した時だ。

「そんな昔の事は覚えてへんわ」
お爺ちゃんは毎年そう言って、いくら質問しても真面に答えてくれなかった。

僕は先生にサボったと思われて怒られるのも嫌だったし、何で面倒くさがるのだろうと腹がたっていた。
だって覚えていないはずがない。その証拠に、聞いてもいないのにお爺ちゃんはよくアメリカで戦前に見た映画の話をしていた。日本の子供が食事に困り竹槍を持って訓練をさせられていた時代に、アメリカの子供達は「オズの魔法使い」というカラーで大がかりな特撮まである夢でいっぱいのミュージカル映画を見ていたと。
「そりゃ勝てるわけない思うたわ」なんて言いながら、戦争になる直前や戦後の話は細かくしていた。なのに宿題で聞かなければいけない戦争中の話になると、急に覚えていないと言い出して、寝たふりをしたりする。

それでも僕が、先生に怒られるから何か教えてと、しつこく聞くと、
「とにかく戦争はあかんと、おじいちゃんに言われましたって書いとき」
と言ったきり、自分の部屋に入ってしまうのだった。

●そして、今思うこと

まだ電車は来ない。

本当にそろそろ帰らないとなと焦る。その日、僕はある決断をして連絡をしなければいけなかった。
僕は自分で作った演劇団体の代表をしている。来年以降の活動を決めなければいけない。
スタッフやユニットメンバーが頑張って前向きな意見をアイデアをくれていた。
映像の制作、負債額を補う為のクラウドファンディング、来年の劇場申請…
どれもやるなら本腰をいれて腹を決めないといけない。リスクを伴う。
この状況でちゃんとエンタメなんて出来るのだろうか。そもそも、僕がやって良いのだろうか。やれるのか。

携帯は忘れてきたんじゃない、置いてきたのだ。でも、そろそろ向き合わないといけない。
僕が言い淀んでいては、団体も前にも後ろにも歩いて行けない。

自分がこの状況にならなければ、あの時何で祖父が言い淀んだのか今更気にもならなかったし、思い出すこともなかっただろう。
そして、この事と祖父が亡くなってから聞いた話を繋げて考えることもなかっただろう。


祖父の一周忌。
親戚や祖父の知人から色んな話を聞いたり伝えられた。
その話の中の祖父は僕の知っている「お爺ちゃん」ではなくて。何処かの知らない人の話を聞いているようだった。

祖父が若い頃、英語の道に進もうか悩んでいたこと。
戦後日本に帰ってきて、家も焼けて祖母とも中々会えなかったこと。
そして、それでも再会して家庭を築いたこと。
戦後、貧乏で仕事に困ったこと。
自分で放送局に売り込んで、始まったばかりのTV放送で英会話番組の台本を書いたこと。

不確かでおぼろげな記憶の話も聞いた。
戦争中は通訳っぽい事もしていたらしいとうこと。仲間と早く戦争を終わらせられないかと語っていた若者だったらしいということ。

祖父は、やはりすごい人だった。でも、どうやら順風満帆ではなかった。
一生懸命もがいて悪あがいた人だった。

祖父は戦争で何を失い何を諦めて、何を信じ何を諦めなかったのだろう。
きっと、仕事の予定どころか家も焼けて無くなった戦後の生活は、決して祖父が英語を勉強し始めた頃に思い描いた未来ではなかっただろう。

「覚えてへんわ」と言った戦争の記憶は、忘れたい記録だったのだろうか。
そういえば、終戦記念日に何の興味も示さなかった祖父は、8月6日と9日だけは黙祷していた。


もっと祖父と話したかったなと思った。
思春期になると、僕は祖父に限らず家族と距離を置くようになり、家出をして芸能活動を始め、上京した。そんな僕を見て祖父はガッカリしているだろうと思っていた。
たまに帰省して祖父に会っても、僕に仕事の話を聞いてくる事はなかった。

一周忌の日、母が祖父の手帳を見せてくれた。あの後ろの方に阪急電車の時刻表がある分厚い手帳だ。
そこには仕事の予定や病院の予約時間と共に、僕が大阪の番組に出演する日程が記されていた。

お爺ちゃんは信じてくれていた。
孫の浅はかな夢を。
名作と言われる西部劇を嘘の話やと笑っても、僕の計画性の甘い夢物語は応援してくれていた。

あの手帳に救われた。大人になっても。

そして今も。紐付けされた幼少期の記憶と連なって、僕に新たな感情を植え付けた。
きっと思い描いていた未来と違う現実に出会うなんて事は、今に始まったことじゃない。たぶん、これからもそんな事が沢山あるだろう。
よく考えたら、漫画家になりたかったのに脚本を書いている。TVで冠番組をやりたかったのに舞台の演出をしている。ダウンタウンみたいなコンビになりたかったのにピン芸人になっている。家族と解り合えないと思っていたのに仲良くなっている。
夢なんて毎晩見るモノで、日々更新されるべきものなのだろう。


とうとう泣き出した息子をベビーカーから降ろして抱きかかえる。
「もうちょっと粘るか」
まだ二歳の彼には、そんな言葉は伝わらない。
高い高いをしてご機嫌を取りながら、お構いなしに話し続ける。
「今からお父ちゃんが電車を呼ぶ呪文を使ったろう」

泣き止まない息子を抱えて、ゆっくりとカウントを始める。

「3…」

僕の手帳には時刻表が載っていない。
でも、これに賭けてみたい気持ちだった。

「2…」

僕はまだ呪文を知らない。

「1…」

それでも目を瞑って真剣に唱える。

我ながら馬鹿な事をやっているなと思いながら、「えいっ!」と叫ぼうとしたその時、

ビュン!
ガタンゴトンという大きな音と共に僕の顔を強い風が吹き付ける。
目を開けると、特急電車が走り抜けていく。
息子が興奮して指をさしている。
思った以上に風が強くて目をつぶりそうになる。息子が大喜びをしている。
僕はギュッと抱きしめて目をつぶる。

すると、顔の前で感じていた風が、僕の身体の真ん中を貫いて吹き抜けていく。
それは僕の中を通って、遠く遠く先の方まで吹き抜けていくの感じた。

思わず後ろを振り返る。
すると、目の前には焼け野原が広がっていた。
頭上には戦闘機が飛んでいく。
それを馬に乗って追いかけていく西部劇のカーボーイたち。彼らは敵なのか味方なのか。
遠くの方で誰かを探す若者がいる。
若者は途方に暮れながらも、真っ直ぐこっちを見ている。その眼差しは、僕を通り越して僕の先の景色をとらえていた。


息子が再び愚図りだした。早く次の電車を見たがっているらしい。
あんなに喜ぶならもう少しココにいようかとも思ったが、ベビーカーに乗せて帰る事にした。帰って、やらなければいけない事がある。これから忙しくなる。

歩き出すと意外に静かにしているなと思いベビーカーを覗き込むと、いつの間にか彼は寝てしまっていた。
もし、この子が大きくなって夢が叶うかと聞いてきたら、食い気味に叶うよと言ってやろう。
前置きも後付けもなく理屈抜きで言ってやろう。そして、ただただ信じよう。
僕は寝息をたてる息子の頭を撫でて、こう呟いた。

「叶わいでか」



おしまい。

TOMOIKEプロデュース、来年以降の演劇活動に向けてのプロジェクト
https://motion-gallery.net/projects/tomo3kikaku

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