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#323 『芭蕉俳諧の本質』

本日は、国文学者の尾形仂さんの「芭蕉俳諧の本質」についてのお話です。

"大学一年の時指導教授が『去来抄・三冊子・旅寝論』という松尾芭蕉の門弟らによる文庫本を元に、芭蕉俳論を演習してくださったんです。その中で「不易流行」という言葉が出てきましてね。「不易」とは変わらないこと。「流行」とは流れ動く、つまり変化すること。"
"学問とは大変大きな大きな体系を持っているもので、永遠不変なものである、という感じを受けました。一方で、自分は大学を卒業すればすぐ軍隊に行かなければならず、その先には戦死の運命が待っている、絶えず流行、変化する、瞬間的なものですよね。"
"その瞬間的な生を通して、どうすれば永遠の価値に繋がることができるだろうか。その課題に「不易流行」という言葉が答えてくれるのではと思いましてね。芭蕉の俳論を、卒論の題材にしてみようと思ったんです。"
"芭蕉の研究を続けていくうち「不易流行」という言葉が、以前に想像していたような意味ではないことが分かってきたんです。芭蕉が生きてきた当時の思想界は、朱子学が時代のイデオロギーでした。朱子学の考え方からすると、絶えず流行変化することが、永遠不変の真理だといえるかもしれない。しかし芭蕉の場合は、それを一つの「実践原理」として絶えず自分を新たにして作風を変化させていった。つまりそれこそが俳諧という文芸の不変の生き方であるとしたのではないか。もう一つは俳諧における「永遠不易の価値」ですね。その価値は真実の追求を目指し、自己改革をしていく努力の中から生まれるのではないかと。私はそう結論づけました。"
"連句は原則として何人かの仲間と膝を突き合わせながらやるものです。互いに相手の血の温もりを感じ合いながら、前の人がつけた句に次の句をつけて答える。次の人は前の句に対して新しい別な解釈を与える。そうすることによって、前の句が全く違う意味に変わってくる。つまり絶えず変化しているわけです。近代文学というのは孤独の文学、要するに「個」の文学です。それに対して芭蕉が目指したのは、心の深く通じ合った仲間が集まって、皆で一つの作品を完成する「座」の文学だった。相手と座を共にして句を詠み交わす、互いに唱和する中で自分の個を確立する、そういうものなんです。"
"「秋深き隣は何をする人ぞ」という句は孤独を通じて人と繋がり合おうとする、芭蕉俳諧の本質を最もよく示しているものだと思います。"


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書籍『1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』
2021/11/19 『芭蕉俳諧の本質』
尾形仂 国文学者
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※Photo by Nick Patel on Unsplash