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世界の果てに逃げられる切符があったら。--成長小説・秋の月、風の夜(105)

#21 この世の果て

家族と夕食の時間がずれてもいいように、あたためるだけの作り置きのハンバーグを人数分と、大盛のポテトサラダと、味噌汁。
奈々瀬は朝のうちに、弟にいろいろと指示をしておいた。

学校では、不審者に注意するようにとの通達があった。帰宅途中の生徒が、なんと学校からわずか八分のところで襲われたらしい。
いやな話をきいた、と奈々瀬は思った。昨冬自分が似たような目にあったあとと同じような注意事項を、ぼんやりと聞いていた。

放課後すぐに、高橋から電話が入った。
――今、学校と同じ大通りの、ケーキ屋の駐車場。歩いてこれる?
「行きます」
駅とは反対側。シルバーのA4アバントはすぐ見つかった。
奈々瀬は助手席のほうに回った。
誰かに目撃されたら、「不審な車」なんて言われてしまうのだろうか。どきどきした。


「お待たせしました」
高橋は奈々瀬の鞄を後部席においてやり、ケーキ屋で買っておいたホットチョコレートを渡す。
「おいしそう。いただきます」
奈々瀬はシートベルトをしめて、うす茶色のスリーブをはめたカップを受け取る。

予想外に、指先が冷えていたのだ……と、奈々瀬は感じた。ホットチョコレートの湯気が、頬をなでてあがっていく。
高橋の横顔をみる。前回会ったときより、元気がない。服は、カジュアルなジャケットの下にVネック。

高橋は車を駐車場から出した。

十分も走らないうちに、広々した公園にたどりついた。
車を停めて、公園の中ほどにあるベンチを見つける。すっかり外気に冷え切って、千草にすだく虫の音に埋もれてしまいそうだ。
腰かけようとした奈々瀬を止めて、高橋はポケットからハンカチを取り出してベンチに敷いた。ベンチの木が、少しだけ露を含んだように湿っていたから。

奈々瀬は小さな声で礼を言った。高橋のハンカチをスカートの下にしくのが、恥ずかしかった。
同時にふと、初夏に自分が泣いたとき、高橋に借りたままのくしゃくしゃでしめしめのハンカチをポケットから探し出して、ばつの悪い顔をしてまたポケットにつっこんだ四郎のことを思い出した。

高橋は、奈々瀬に話しかけた。
「宮垣先生に四郎を預けたらば、いっぺんにご先祖さまの数が減ってくれた」

そして四郎からの電話の録音を、奈々瀬に聞かせた。
「あっ……」奈々瀬がおどろいた。「声が、あかるい……ずっと深く通ってる」
「ご先祖さまが減ると、物理的に息が通るんだろう」
高橋は答えながら、自分がとぼけていることを奈々瀬には気づかれていないことを確認していた。
気分が沈んでいてよかった。この気分の沈み具合が、偶然にも奈々瀬に、いろいろと自分の情報を読み取られることを防いでくれている。

四郎のご先祖さまが、胎児期から物理的に四郎の脳神経と骨盤内側で根っこをダブルロックされて絡まっているという宮垣からの話は、グロテスクすぎて情報共有したくはなかった。

「前から呼吸と声はみごとでしたけど、もっと、こんなにも変わるの……」
奈々瀬はいっしんに、録音に聞き入った。

「声だけじゃなく、少しは、電話で話しやすくもなるのかしら」
「なるよ、きっと」

高橋は奈々瀬を見た。「とうぶん、四郎は宮垣先生に預けっぱなしだ」
奈々瀬は言った。「さびしいんですか」

「さびしいよ。僕んちに月あたり五日も泊まってたんだから。
ふと話しかけたくなったとき、親友がそばにいない……これほどさびしいもんだとは思わなかった。
朝のコーヒーも、あいつがいるといそいそと淹れてたんだ、ばかだね」

高橋は黙った。四郎のご先祖さまが自分に一部分憑依してきていたという話も共有しなかった。

「じゃあ、さびしさで死んじゃわないうちに、いちど四郎に会わないと」

「そうだね。どこかで会う日を決めよう。そこで久しぶりに僕が四郎と雑談三昧、奈々ちゃんが四郎とファーストキスだ」
言いながら高橋の気持ちが、やはり際限なく沈んでいく。
「ごめん……こんな不安定な相談係で」
ついに、高橋はそんな風に言った。

「そのほうが、うそっぽくなくて、相談係さんとして誠実な気がするので……うれしいです」
奈々瀬は、自分の気持ちのなかの、足を置いてもいい踏み石をえらぶような言い方をした。そうして奈々瀬は、さいごにカップに少しだけ残ったホットチョコレートを、ゆっくりと飲んだ。

「僕が明るく楽しくふるまってるとき、うそっぽかった?」
ついそんな風にきいた高橋は、自分が宮垣に「うそつきは嫌いだ」と言われたことに衝撃を受けていたのだ、とやっと気づいた。

とまどうような視線が奈々瀬に向かって揺れ、奈々瀬は思いのほかまっすぐに高橋を見る自分に、少しだけびっくりしながら答えた。

「いいえ、あれも本心から高橋さん、楽しさ味わってたでしょ。
気持ちって、空みたいな部分や、花みたいな部分や、ごつごつした岩みたいな部分や、荒れ狂う海みたいな部分が、いくつもいくつも同時にあって。画家として高橋さんが気づいてて、展覧会の絵で何作も描いてたように……。

いろんな面はぜんぶ高橋さんの、ほんとうの気持ちでしょう。誰の中にもそれ全部、同居してるものでしょ。私の中にもあるでしょ。
今日は、いつも高橋さんが一人のときにしか眺めない、ごつごつした岩とか、荒れる海とかを、一緒に見てましょう」

「……奈々ちゃんありがとう」

高橋は低くつぶやいた。「僕も、疲れた。……億劫(おっくう)だ」
「四郎に一生懸命になっちゃって、四郎にかかりきっちゃうと、自分のケアがお留守になっちゃう、ふたりとも」

「正直なところを言うと、君のこと抱きしめたいなと思ってる」

高橋は陰鬱な声で、目をつむったまま言った。

「抱きしめてあげたいなと思ってるけど、今きみを抱きしめるわけにはいかない。四郎の大切な人でいてもらいたい。奈々ちゃん、僕の代わりに、自分で自分をあたためてあげて。僕もそうする。

君の頭をなでてあげたい、よくがんばってるねって。
抱きしめて、思う存分ねぎらって、安らがせてあげたい。
僕もそうしてほしい気分はある、……いやとても強い、けれどそのふるまいは実際にはしないで、絶対にしないで。僕は四郎を追い詰めるより、自分が何かを思い切るほうを選ぶと決めた。そうだ決めた。

僕がそうする代わりに奈々ちゃん、それを思いうかべてみて。

世界の果てへ逃げられる切符があったら二枚だけ買って、今すぐ誰にも知らせず二人で逃げて姿をくらましてしまいたい。

誰とも連絡を取らずに、ふたりきりで、仕事も持ち物もぜんぶすてて、ふたりでお互いを呼びあって、夜も、昼も、その次の夜も、その次の朝も、ずうっとずうっと二人きりで愛し合って抱きしめあって、ふたりで水を飲んでふたりでりんごをかじって、また愛し合ってなぐさめあって、君が僕にあきあきするまで離さないでいたい。
ということをするわけにはいかない。

僕のかわりに僕がいま、ふたりの間にあるテーブルに放り出したこの心を、安っぽいキーホルダーみたいに小指ですくいあげて。

四郎にわからないようにくしゃくしゃに丸めて、どこか遠くへ放り投げちゃって」

痛む右肩に左手をまわし、右手は左の肋骨にそうっと当て、高橋はぼそぼそと、目をつむったままつぶやいた。



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もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!