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どこへ流されて行っちゃうんだろう。ーー秋の月、風の夜(35)

店を出て、雑貨と洋服をみる。
ふと、奈々瀬は高橋が歩を寄せ、横に並んでくれるのを意識した。

どぎまぎする気配を感じたのだろう……高橋が言った。
「手をつなごうか」

どうしよう……
奈々瀬の脳裏に、四郎のことがよぎった。

――海へいこうか。
――手をつなごうか。
――キスをしようか。
――キスより悪いこと、していい?

高橋はきっと、奈々瀬には慎重に慎重に距離を取って、そんなことを絶対に言わない。でも、奈々瀬は別の女の人にそんな風に言う高橋を、勝手に読みといてしまう。

(……いけない、きっと、手をつないだら、間柄が近づきすぎてしまう……)

「大丈夫だよ」高橋はそっと、手を差し出した。
「……大丈夫、ですか……?」奈々瀬は、おずおずときいた。
「……手に、触れないほうが、いいか……身体情報読みには、よろしくない掌かもしれない」高橋は、差し出した手をひっこめ、ひじを差し出した。「腕を組むほうがいい?」

とまどった挙句、奈々瀬はそっと、左手を高橋のひじの内側に添えた。
酷使して潰しかけた肩・腕・背中の、ひしぐような情報群が押し寄せた。

「……あ……っ……」

びくっ、と奈々瀬は震えた。
「結局だいぶいろいろ、わかっちゃうんだね」高橋はおどろいて立ち止まり、奈々瀬をみおろした。
「そうみたい……」くらくらする感覚にさいなまれて、奈々瀬は高橋の二の腕に、両手ですがった。

「どんなことを捉えているの」
「さっき、お客さん先の飲食チェーンの、口コミ課金や出店撤退や廃棄ロスなんかのきついとこにフォーカスしちゃったからか、同じようなトコを……」
「どんな?」

奈々瀬はきゅっと唇を噛んだ。
「あの……恐怖……ふだん、高橋さんが押さえつけて平気なようにしてる、恐怖……」
「そんな情報、取れちゃうんだ」高橋はむしろ、おもしろそうに言った。(四郎にはじめて、おじさんおばさんからひっぱっている発狂恐怖を打ち明けたのは、岐阜の道場で夜中にだったな)そんなことを思った。

「はい、ええと、恐怖の処理の問題を、もう5年ごしで追っかけてて。得体の知れないもの、秩序や安全を奪うものへの恐怖とか、安心が急に奪われちゃってパニックになるような感じ。発狂しちゃうんじゃないかって恐怖が、けっこうふかいところへ広がっています。私これ、1/5ぐらいだったら、やわらげられるかもしれません」
「歩きながらでいいの?」
「ええ……はい」
「じゃあ、頼んじゃおう」高橋は本当に気軽に、まるでサンドイッチを作ってもらうかのように、そう言った。

奈々瀬の細い指が、腕をおずおずとさわっている。あたたかい細いゆび、小さいてのひら。
高橋は、いいにおいだな、と思った。

「愛着感が急に奪われる感じは、うすうすそうかなと思ってたんだけど、四郎と似てる?あいつのほうが断然ひどいと思うけど」
「高橋さんの愛着感は、基本的には形成されてるけど、小さいころから激しい横やりが入った可能性はありますか?」
「祐華おばさんに振り回されたのと、両親が絶えず大ゲンカしてたのと、それかな」
高橋は話をしながら、情報共有のレベルがぐっと深くなってしまって、居心地が悪いな、とふと思った。反対にそれは、自分が奈々瀬の前でいい恰好をしたい、という気分の表れなのだろう。「四郎はどうなの」

「四郎には最初から、胎児期の安心感と生まれたての頃の愛着感がないんです。いつもお母さんが恐怖にどっぷりつかってて、たぶん羊水も甘くなかっただろうし、ご先祖さまが途中で詰め込まれたような神経形成の過程が、なんだかわけのわからないひたすらこわいことが起こってます。あと生まれたらすぐ、お爺さんが育ててます。あの人寝かされた姿勢で延々と泣いてるの。おじいさんの骨ばった背中におんぶされた感覚と。左脳のインデックスがないころ右脳が記憶するから、本人には対人恐怖の原因の見当がつかないです」
「それ四郎自覚してないの?」

「私と一度なぞってつないでをしてるから、そのとき私の認識を共有してると思います。それより、今、高橋さんのことしなきゃ。どうして自分のこと後回しにするんですか。大事な親友なのはわかるけど。私も四郎を放っておけない感じがすごく強いからよくわかるけど」
「そうだよね、確かにそうだ」

ふわふわした髪と、細いうなじ。高橋は奈々瀬をみおろしていた。この子は今そばにいる人を大切にしようとするんだ、と感じた。

ふいに、心臓をわしづかみにされるような、ぎゅうっとした圧がかかった。
「……っ」急にせきこんだ。
「ごめんなさい!」奈々瀬があわてた。

「だいぶ変な感じに絡んじゃってるんだね?」

「……ほどいてます」
「わかるよ」

咳が止まらない。おじさんがおかしい、おばさんがおかしい、自分もやがて話が飛んだり、振る舞いが穏当さを欠いたり、画廊の主人とほんとうにひどい言い合いになったり、エキセントリックな言動が常軌を逸して……

「ごめん、どっか座りたい」

ベンチがある。高橋はやや斜めに、ベンチの背にもたれかかり、顔をおおった。
奈々瀬の手が、上下する肺に触れた。

(やば……)確実に恐怖感が減って、安堵が広がってくる。とともに、息づかいが荒い。がまんできない。
あれほど、警戒してたのに。大丈夫だよといいながら、全然大丈夫じゃない。

ゆるいほうへ、ゆるいほうへ、自分が流されていく。

どうして、自分はこんなに、大切なものを踏み越えることについて、ゆるいんだろう……
四郎のご先祖さまたちや康さんに、とやかく言えない。

知っている。
答えの出ないことに「なぜ」「どうして」を問うとき、人はドラマに溺れたがっているのだなんて、とうに知っている……。

「……ありがとう」
ぽつりと、高橋はつぶやいた。




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マガジン:小説「秋の月、風の夜」
もくろみ・目次・登場人物紹介

「最大値の2割」ぐらいで構わないから、ご機嫌でいたい。いろいろあって、いろいろ重なって、とてもご機嫌でいられない時の「逃げ場」であってほしい。そういう書き物を書けたら幸せです。ありがとう!