正社員も国家資格も捨てて異業種フリーターを選んだ
6年間、自分で資格に囚われていた
成人式を終えた数ヵ月後に取得した国家資格は、
確かに私をドン底環境から掬い上げるクモの糸だった。
新卒で入った病院での給与。
手取り30万円近く。
わざわざ一般的な新卒の手取りを検索して、
それより明らかに多い給与明細の額面に
「親の金で大学に行った人間を!!!!ついに見返したぞ!!!!」
と捻くれた思考で、醜くほくそ笑んでいた。
いま思えば、きっと私が給与明細にニヤついている間に、同級生達は仕事を覚えることや新たな環境、ライフステージに健やかな喜びを得ていたと思う。
私にとっての国家資格は
『得たかった仕事のための切符』
ではなくドン底から掬い上げるクモの糸だったから、一度掴んだら手を離すワケにはいかなかった。
実家も、煩わしかった人間関係も、モノも捨てた私はもう地上に引き上げられているのに。
大地に降りて自分で歩き始めることをせず国家資格という細い糸だけを握りしめて、
「これ掴んでないと死ぬから!!!!離しちゃダメなの!!!!自分じゃなくなるから!!!!」
と喚いていた。
もうドン底から引き上げられて地上に足をつけていると気づいたのは、この4ヶ月の休職期間のうちだった。
この糸、国家資格は、確かに地上に上がるには必要だったけれど、もう掴んでいなくてもいいんじゃない?
看護業界という異常なガラパゴス諸島を脱出したい
『職業実習で現場と実践を学びにきた学生の挨拶は、無視をするのが基本。』
という職業があったら、そんな仕事が社会に存在していること自体に頭を抱えたくなると思う。
そんな光景が、看護業界には当たり前にある。
看護師の国家資格を手にするには
という悪夢の経験を経ていることが必須になる。
義務教育で「元気なあいさつ私から」みたいな標語とともに生きてきた私達にとって、
看護業界はガラパゴス諸島の独自の生態系そのものだった。
飲食店でアルバイトをしていた私は、社員に向かって「ぶっ殺すぞ!」と叫ぶモラハラ店長ですら、お客様には「いらっしゃいませ!」の笑顔を向けることを知っていた。
1口ずつしか手をつけず大量の廃棄を出していた社長試食ですら、厳しい社長も社員に対して最低限のですます口調はあった。
それなのに看護師ときたら!
労働基準法を守らないとか、そんな生易しいものじゃない。
専門教育のどこで道徳を捨てるタイミングがあったのか分からない。
けれど『看護業界』という狭い孤島で育った看護師は、いつしかこの特殊な環境が『社会人のあるべき姿であり、社会そのもの』だと思い始める。
新卒で入職した病院で数年も経てば、
過剰な前後のサービス残業が当たり前で、お局を上手く転がし、学生の挨拶を無視しては文句を垂れる立派な看護師になってしまう。
数少ない社会人経験を経て看護師になる人だけが、看護業界の異常さに対する燻りをもって、1枚隔てた外から見ている。
これまで10を越える看護の現場で働いてきたけれど、どこも『看護師』しか経験していない社会人がほとんどだった。
私はもう、抜け出したかった。
看護しか知らないのに、あらゆる経験をし、あらゆる職や学に就き、あらゆる環境におかれた人の生を支える仕事をしているなんて。
収入の大小で自分の幸せは変わらない
きちんと空腹なら、高級店の銘柄牛の焼肉も、3パック999円で購入した味付けせせりも、どちらも美味しい。
この「美味しい」という感情は、脳の同じセンサーが反応している。
モノを手放し続けてきた結果、一般的にはモノや資産が少ないといわれる生活でも、自分の感じる幸せが小さくなることはないと知った。
たしかに老後に向けて経済的な蓄えを充実させることだけを考えたら、国家資格を持つ私は、そのまま働いている方が手っ取り早かったのかもしれない。
払う金額の多さで満足感を得ている人も、いるかもしれない。
けれど、何十年後かの私は、体力と行動力のあるうちに自由を持たず沢山の経験をしなかったことをきっと悔いる。
自分の収入のためだけに苦しい働き方を続けてしまいたくはない。
収入を上げるよりも、その分の生活コストを見直す方が手っ取り早い。
「だいたい何でも満足できる」という豊かさを手に入れたら、それなりに逞しく生きていける。
フリーターという『自由雇用』を
正社員と国家資格にしがみついて、
引き摺られながら進んでいた私の進行方向は後ろ向きだった。
給料が良ければ、資格があれば、社会に「すごい」と言われる選択なら……。
そうやって、捻くれた思考で人生を狭めてきた。
これまでと全く違う業界でフリーターになるという選択には、捻くれた思考を手放して自分で人生を選んでいくという前向きな気持ちがある。
『正規雇用』の対義語が『非正規雇用』だから、
まるで
「社会的に正しく雇われてない人」
のような言葉の印象を与えてしまうけれど、
そうだとは思わない。
あえて正社員の選択をせずアルバイトやパート雇用を選び、国民の義務を果たして生きていける人は、
『非正規雇用』ではなく『自由雇用』と言えると思う。
性別問わずライブイベントによって雇われ方を変えていくことは、自分の生き方を維持し、かつ豊かにするためには必要なことだと感じる。
それに私の場合は、血縁と縁を切っており、子供を持つ選択もしないから遺す相手がいない。
子供を持たない理由は、生まれる子供が必ずしも健常である確証はどこにもないことを知っているから。
虐待も養育の放棄も、子供が育つには苦しすぎる環境も、外から見えないドアの内側に溢れていることを知っているから。
不確定な存在を生み出してしまうことより、今すでに苦しい環境にいる子供を支援する方が先決だと感じている。
まずは、自分が苦しくない生き方をしていたい。
自分が納得できる働き方で、これまでに選ばなかった方角を自分で選択して、良いも悪いも沢山の経験をする。
その先何十年後かに、
「私結局いろんなことやってきたなぁ、もう体験したいことはし尽くしたなぁ、納得したし、満足だなぁ。」
と言う自分が在るように、これからの時間を使っていきたい。