見出し画像

教育無償化の本当の意味

ここのところ、毎日(のように)書いています。
選挙戦で多くの候補者が国の未来のためにがんばっているので、
私も自分のできることを、と思いまして。

今日は、教育について。

私は、教育というものはお金をとってはいけないと思っています。
小学校から大学院まで、すべて無償化。
大人になってから学びたい人も、すべて無償であるべきと思ってます。
いつでも、誰でも、いつからでも。

そんなことを言うと、教育関係者の方は怒るかも知れませんが、
教育者は無償でやれ、という意味ではありません。

経済的な側面は、国がすべての面倒を見るべきだと
思っているということです。
なぜそう思うか、という話をしますね。

教育の目的とは、一体何でしょうか?

多くの人は、ある特定の個人が、別の個人との経済競争に勝つために、
身に付けるべきものだと思っている気がします。

しかし、全然そんなことじゃないと思っているんですね。
教育の本当の目的とは、一体何でしょうか?

それは、人類全体の進化や、持続可能性のためだと、私は思っています。
この世のすべての人々の意識や知的な力が底上げされれば、
それだけ人類は持続可能性が高まると思っているのです。

つまり、教育の目的・ミッションは、競争ではなく、
人類のために、人間ひとりひとりの質を上げることにあるのです。

少なくとも、深刻な課題をゴマンと抱えた今の人類にとっては、
そういう意味だと思うんですね。

例えば、私は今、大学院に行きたくて仕方がありません。
しかし、子ども二人を抱え、その学費だけでも大変なので、
到底、今から自分の学びにお金を割くことはできません。

しかし、学ぶことができたら、
その見識をより世の中に活かすことができるという自負はあるのです。
つまり自分自身の利益のために学ぶのではなく、
それを社会に還元したいということですね。

私と同じようなことを思っているアラフィフおじさんは、
他にもたくさんいるのではないでしょうか。

でも、生きるために仕事はしなくちゃならないし、
時間も金もないのです。

もし、そういう人間が全員、気軽に学ぶことができて、
そこで得た知見を生かして、みんなで社会参加していったら、
世の中がものすごく良くなると思うのです。素早く、簡単に。

言ってみれば、学問の民主化ですね。

でも、お金が理由でそうできない、というのは、
実は社会にとって大きな損失だと思うのです。ちがうでしょうか。

例えばスポーツチームに例えてみます。

もちろん、ひとりひとりの選手は、
限られたレギュラーポジションの獲得を目指して
競争するかも知れません。

しかし、チームそのものを運営する立場から見た場合、
チームの全員の力が上がった方がいいチームになります。
それは選手だけでなく、
チームに関係するあらゆる人々に同じことが言えて、
ひとりひとりの質の高さが、
意識の高い、強いチームを作るのだと思います。

これを国とか、地球に置き換えればいいんですね。

気候危機に直面する我々人類は今、
内輪で何かを争っている場合ではないのです。
誰一人取り残さず、すべての人がお互いの質を高めあって、
みんなで課題解決に立ち向かわなければいけないのです。

それなのに、いまだに個人の利益にこだわっている人が
多すぎると思うんですね。
それは、「今まで」の常識から抜け出せないでいる状態です。

自分だけでなく、みんなが誇りを持って生き、
他者の成長を互いに喜び合える社会を作らなければいけません。
そのとき、教育は本当に重要なのです。

今の仕組みの中では、教育の格差は、暮らしの格差に直結しています。
日本には貧困の問題が横たわっていますが、
これは「自分が貧困でなければいい」ということではなく、
貧困の人が同じ国の中にいる、という意識共有がない問題なのです。

しかし、なかなかそう考えられないのは、
お金がすべての判断のモノサシになってしまっているからですね。

富を占有し、他者に分けないという常識です。
タダで富を人に渡すことは「損」であるという認識ですね。
そういう常識が現代人に蔓延しているので、
お金の流動性が悪くなっています。

お金は、何かをやれる人と、やれない人を分けます。
チャンスが得られる人と、チャンスを得られない人に分けるのです。
しかし、我々は本当は同じひとつのチームなので、
例えばそこに学ぶチャンスのない人がいることは、
相対的な自分の勝利ではなく、絶対的な全体の敗北を意味するのです。

沈没する船の中で、自分だけがマストのてっぺんに登れたところで、
溺れるまでの時間の差が多少あるだけで、いずれは皆、沈むことになる。
これからの時代は、そういう視座を持たなければいけないのですね。

そのような視座を「社会的視座」というのだと私は思いますが、
今の強欲資本主義に慣れきってしまうと、
船の上の階層にいる人だけでなく、下の階層にいる人までもが、
みんなで船全体のことを考えることを放棄してしまうんですね。

とても不思議なことです。

「食えなくなる恐怖」は、現状維持を最大の目標とさせてしまいます。
それが社会そのものを崩壊させるとしても。
そこから目を逸させてしまうのです。

私たちは、誰もが味方同士であって、
地球というひとつの船の、日本という同じ船室にいる運命共同体なのです。

荒ぶる大海原を、この船が沈まずにちゃんと航行をつづけるには、
クルーである我々ひとりひとりの船員としての性能、
つまり「人としての質」を上げることです。

その課題意識があったなら、
お金が原因となって教育が受けられない人がいるなんて、
まったくナンセンスなことなんですね。

教育は人づくりです。
人づくりは、国づくりであり、地球づくりだということです。
そう考えれば、国にとって、教育にかかるお金など安いものなはずですね。

教育にかけるお金は、地球規模の共生の視座を育てるならば、
それは防衛費であると考えることもできる。
地域社会の共生を育てるなら、社会保障費と考えることもできる。
人の暮らしの、すべての根っこにあるのが、教育なのです。

産婦人科の新生児室にいる、ある日に生まれた赤ちゃんたち。
その全員を、質の高い人間に仕上げていく責任が、
この社会にはあるのです。

そのお金を国が出すのは、当たり前のことだし、
そうしてひとりひとりが質の高い人間になることを、
国は心から喜ばなければいけません。

誤解されるといけないので念のため言いますが、
私が言っているのは、いわゆる経済生産性の高い人間をつくる、
という意味ではありません。

むしろその逆です。

経済生産性に固執しすぎたせいで、
皆が同じ船に乗っていることを忘れてしまったのですから。

必要なのは、社会的な視座をもって、
今、本当に必要なことは何かを考え、共有できることです。
そして、そのためにひとりひとりは何をすべきなのか。
それを考え、行動できる人間であることです。

全体主義ということではありません。
個々が主体的に、
他者や社会のことまでもを考えるというセンスを身につけることです。

なぜなら、そう考えることこそが、最終的に自分のためにもなるからです。

これからの社会において、
生涯教育は、何より重要なファクターになります。
だからこそ、誰もが分け隔てなく教育にアクセスできるようになり、
人類全体で知性の底上げを行う必要があるのです。

それが、教育無償化の本当の意義だと、私は思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?