【映画記録】信じる者は救われる
映画「女神の継承」を観た。
記録映画の様式でフィクションを描き出す映画を、モキュメンタリー映画と呼ぶらしい。初めて知った。映画「女神の継承」はこのモキュメンタリー映画で、祈祷師の取材に来たクルー視点で物語は進む。心霊現象なんて絶対に撮影しない方が良いのに、取材と言う名目上カメラを向けないわけにはいかない、そんなハラハラとドキドキと「ほらなーだから言わんこっちゃないー」感で手汗が止まらない。
以降、ネタバレを含みます。未鑑賞の方、ネタバレは嫌だようという方は是非是非視聴後にお読みください。
神とは往々にして、人知を超えた存在として語られる。
無神論者に「誰も神を見たことは無い、だから神は居ない」と言う人がいるが、神が人知を超えた存在であるのならば、人間が神を認識できないのは致し方ないことだと思う。人間に見える、認識でき説明できる神は、人間の認識下にある時点で人知を超えていない。神は人間の知覚などの手に負える存在ではなく、だからこそ神は信仰する対象なのだ。
「女神の継承」の中で語られる神、バ・ヤンもまた人知を超えたものだった。バ・ヤンの巫女、ニムはバ・ヤンを信じ、自分の力を信じ、人の為に巫女の役目を全うしている。嫌な見方をすると、「バ・ヤンの巫女」という肩書がニムに居場所を与えたとも解釈できる。古くから代々受け継がれてきたものを引き受ける、その為の命なのだという自己肯定もあるだろう。
ニムの姉、ノイにもまたバ・ヤンの巫女になる素質があったが、ノイはこの役目を拒否した。土着信仰なんか信じてないし巫女なんかぜってーやりたくないノイは、多少姑息な手を使って役目をニムに押し付ける。結構自分本位でヤな奴である。ノイは実家の土着信仰を捨ててキリスト教信者になったが、別に聖書に感銘を受けたわけでもイエスキリストを愛したわけでもでもないのだろう。嫌なものを遠ざけるための、ただの手段だ。
神が実在するとして、それを証明する手段はない。信じるしかない。
ノイの娘、ミンに悪霊が憑りついて、その救いを神に求めるのだとしたら、形振り構わず神を信じるべきだった。ニムはバ・ヤンを信じていた。ノイはバ・ヤンを信じていなかった。ミンは神そのものを信じていないようだった。
そして呪いもまた、人知を超えた力である。
人間の怨念が起点に或る呪いは、神よりは多少分かりやすい存在かもしれない。ノイが土着信仰を捨てて嫁いだ先、ヤサンティア家は、違法の犬肉を売り、保険金の為に放火だってするような倫理観死滅一族だった。先祖は首狩りまでしていたようで、一族によって殺された人々の怨念はその子孫、ミンへ向かう。
宗教とは人々に倫理観や道徳や生き延びる知恵を説く手段であり、神はその為の偶像であるという説がある。ヤサンティア家が宗教を信じ、倫理観を学び、法律や道徳を貴ぶようになっていれば、この呪いは生まれなかったのかもしれない。否、類は友を呼ぶと言うし、そういう価値観を得た人はヤサンティア家を離れ、信仰も倫理観も持ち合わせない人だけがヤサンティア家に残ったのかもしれない。だとしたら、どう転んでもこの悲劇は避けられないものだったのだろう。
呪われてしまったミンの悲劇は、ちょっとしたボタンの掛け違いで巨大化し、飛び火してゆく。悲劇を止められたタイミングは何度も何度もあって、しかしミンが、ニムが、ノイが、或いは渦中の誰かがその手段を信じきることができなかった所為で、全てのチャンスが逃される。
ミンが巫女の役目を拒まなかったらよかったのかもしれない。ニムがあの儀式を途中でやめさせなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。ノイがニムに巫女の役目を押し付けなければよかった? テレビクルーがカメラをかなぐり捨ててポンを抱き上げてみせたらあの扉は開かれなかった? ノイが善の人間だったなら、バ・ヤンはミンを助けてくれた? ニムがバ・ヤンを疑わなければ、ニムはあんな死に方をしなかった?
「信じる者は救われる。」と聖書は語る。脅しのような言葉だと思っていたが、殊「女神の継承」に関してはこの言葉に尽きるような気がしている。
心の拠り所は決めておいた方が良い。迷ったときに行先を示してくれる灯りを決めるのだ。そして、一度決めたならばそれを信じぬくことだ。見守られている実感が無くてもいい。そもそも神は人間の認識の外にいる。外から見守ってくれているものがあると、信じることが肝心なのだ。
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