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「9月入学の是非」についての考察

学校9月入学制度は、小池百合子都知事が「以前から9月入学論者だった」と言っているように、かねてより、学のある人たちの間では「すべきだ」と言われて来たことだった。

理由はよく言われているように、国際的には9月始まりの国が多いから。

留学することを考えた場合、留学を受け入れることを考えた場合、それが最もスムーズ、ということだ。

個人的に、もともと私は「9月入学」賛成派だ。

それは、留学のことを考えたわけではない。
冷静に考えれば、ほとんどの子どもにとって留学は関係なく、現実的に学校教育で英語が身についていないので、留学する子だって4月から入学まで現地の語学学校に通うこともあるから、確かに国際的な教育という視点から見れば変更していくことにメリットがあるのはもちろんだが、それだけで9月にする理由にはならないし、社会的同意(コンセンサス)が得られるとは思えない。

しかし、それ抜きでも、今の事態を見れば見るほど、「9月入学」にしてしまう方がいいように思えてくる。

それは、「国際的に」というのとはまったく違う以下の理由があるからだ。

学校は何のために存在するか

9月入学の是非の意見を見ていると、「準備が大変」「現場が大変」とか「子どもがかわいそう」「家庭の負担が」とか、「学校」の本質を考えていないような議論を見かける。

そもそも「学校教育」の本質は、国家を支える国民に、等しく教育の機会を与え、よりよい社会を作る市民を育てるためにある。

こんなことを言うと、「国家のための国民なんてナンセンス」「前時代的だ」という意見を言う人もいるかもしれないが、あくまでも本質論の話であって、感情論とは切り離して考える必要がある。

なぜなら、いわゆる学校教育には「税金」が使われているからだ。

私は別に保守派でも右翼でもない(むしろ逆側だろう)が、これは代えがたい現実だ。国家のために国民があるわけではないが、学校は国家が、国民のために奉仕で用意しているものではない。

税金で国民の教育水準を上げるために、学校がある。
そしてそれが、引いては社会の安定と発展につながる、だから個人も幸せ、という考え方である。教育論ではなく、学校論の話だ。実際、学校がない国は犯罪率が高く、貧しいからさらに犯罪が増えるという負の連鎖が起こる。

個人の教育を重視するなら、マンツーマンでいい。本来はそれが理想だ。

学問(アカデミア)のルーツと言えるプラトンも、師匠であるソクラテスと対話をして学びを深めた。今の学校の勉強だって、一人ひとりの学習進度に合わせて指導すれば、落ちこぼれはゼロになる。

でもそれができないから、集団教育をする。社会的に考えた現実論だ。

学校はあくまでも社会全体に見た時に必要な「装置」なのだ。

だから、税金が使われる。

個人個人がいい暮らしをするために使われていいお金ではない。

それだったら、お金持ちが通う私立学校だけあればいいことになるからだ。実際、格差の進む海外では、公立学校はひどく、私立学校は先進的、というケースも数多いと聞く。

なので、日本が社会における学校の未来をいいかげんに考えているわけではないのだが、私は「9月入学の是非」ばかりが語られる論調に、今の学校教育は、真剣に国民を教育する気があるのか? という疑問を感じざるを得ない。

というのも、「今の4月入学」制度に問題が大いにあると思うからだ。

なぜ4月入学じゃないといけないのか?

「9月入学」の議論になると、専門家は別として、一般的な感情として、「卒業式」や「入学式」が桜のシーズンじゃなくなる、日本の文化が…就職が…、という意見が出てくる。

確かに、確実に「絵」になるし、多くのことが「桜のシーズン=出会いと別れの季節」と結びつけられている。音楽業界では、「桜」をテーマにした曲が毎年リリースされているし、そうするものだということで定着化した。

でも、昔は入学式に桜ということも多かったが、最近は桜の開花がどんどん早くなって、入学式前に散ることも珍しくなくなったし、卒業式が桜というところもある。その流れはどんどんと進むだろう。

そもそも「入学式に桜」というのは、本州の太平洋ベルトに位置する「大都市圏」ではそうだったかもしれないが、北海道や沖縄などは「入学式=桜」ではなく、そのイメージはテレビやマンガの刷り込みでしかない。

実際、昔の日本の学校は、欧米に合わせて「桜」の関係のない9月入学だったし、明治に学校が始まる前の、寺子屋や藩校は「入りたいときに入る」仕組みだった。

それが、大人の事情で4月入学にして、それが定着して色々な文化が作られてきて、それが桜にも繋がったという「今」がある。

別にそれが悪いことではない。

でも、「教育」という面で見たら、3月に学年が終わり、4月に新年度が始まる、今の春休みは短すぎると言わざるをえない。
実際「春休みの想い出」と言われて思い出すことは何があるだろうか?

なぜなら、今の「春休み」は、本当に国民の教育水準を上げるために「機能」していない、まさに「ただの休み」だからだ。

この辺の議論はほぼ聞かないが、ハッキリ言って、今の春休みは、親の引越があ子と、進学した子たちのための準備の期間にしかなっていない。

今の春休みは教育的には不十分だ

なぜなら、3月で「学年の単元」の全課程が修了し、4月からまた新しい学年の単元が始まるのである。その間、卒業学年でなければ、多くの地域の春休みは、約2週間しかない。

たった2週間である。

今年、コロナの影響で、『チャレンジ』で有名なベネッセが、コロナで休校になった子どもたちのために、通常時にチャレンジ契約者に配布される、春休み用の復習教材を無料で公開した。素晴らしい行為だ。

しかし、内容はどうだろう?

たとえば中学生のものだったら「約30~50ページ」とのことで、それだけ聞くと、「結構な分量があるな!」と思われる方もおられるかもしれないが、中身を見たらビックリする。

たとえば中1(新中2)のものを見てみる。

教科は「数学」と「英語」の2教科のみ。

そして、それぞれの問題ページはどれくらいかというと、たったの6ページである。

1年間の「総復習」が、たったの6ページだ。しかも、結構な分量の解説を入れて、である。あとは、見出しと、同じ分量の答えのページ。

総復習ドリル数学

中1であれば「比例と反比例」「平面図形」「立体図形」の、3つの主要単元を見開き1ページで復習するのみになる。問題数は10もないこともある。

どう考えても「1年間の復習」には足らないだろう

誤解のないように言っておきたいが、これは『チャレンジ』のせいではない。春休みが短すぎることが問題なのだ

基本的にチャレンジをやる子は、「勉強が好きで仕方がない」という子ではないので、こういった「短く要点だけ押さえた復習教材」はむしろ、「部活が忙しい」「塾に行けない」という子のための、極めて優れた教材だ。

この『総復習ドリル』には、問題と同じ体裁の丁寧な解答・解説がついており、そういう子に、できるだけ短い時間で、飽きさせずに、大事なところだけをなんとか復習してほしい!という思いが込められているのがよくわかる。

しかし、現実的に考えてほしい。

中学生といえば、定期テストが年に5~6回もある。

いまは「脱ゆとり教育」の影響で、覚える事も増えた。
それが、解説入れての6ページで復習しきれるわけがない。しかもいくら積み重ね教科だとはいえ、数学と英語のみ・・・。

これは、「短い春休み」で、休み気分も残しつつ、ポイントだけ抑えて復習しようね、というためのドリルであって、「1年間の内容をしっかりと復習」できるものではない。

なぜなら、それをやる時間が、春休みにはないからだ。

さらに、春休みが短いことは、学校現場も大変だ。

4月は人事異動もあるため、春休みの2週間の間に異動するが、新学年の学年担当、教科担当、部活担当を決めて、クラス分け、カリキュラム、学校行事のスケジュールを全て、短い期間で決めなければならない。
入学式の準備だけじゃなく、受け入れ体制、何も知らない子どもたちのクラス分けのためのリサーチもある。
校長が替われば、4月に学校方針が変わることもある。異動がある教師はその準備もしないといけない。

教師の負担はかなりのもので、私も学校現場で働いていたことがあるが、春休み~4月は「一番大変」な時期であり、土日出勤するところもある。

そう考えると、今の「春休みの短さ」は誰得だろうか? とも思う。

1年の終わりに長期休暇があるべきである

日本の学校教育の問題点の一つに、「年齢主義」がある。

日本に住んでいると、同じ学年は同い年というのが当たり前だが、海外では必ずしもそうではないこともある。

よくあるのが、1年間留年できる制度だ。

「留年」というと、本来はあくまでも学習進度が悪く「学年を一時的に留めおく」制度なのだが、問題を起こして留年したか、よほどアホなのかと思われるほど、日本ではとにかくイメージが悪い。

たとえば日本の小5に当たる子が、小6に普通なら進級するはずなのに、再び小5のクラスで授業を受ける、ということは日本では100%ありえない。

仕組み上は日本でも小学生の「留年」を認めてはいるが、それが行われることで、「みんなと違う」「不公平」「差別」などといったことが起こることを配慮して、どれだけ勉強についていけていなくても、義務教育の間は、学校を休んでいても進級させるようにしている。

いわば、「同じ学年の子は同じ学年と一緒にいるのが幸せ」という発想だ。

これは、受験も、就職するときにも出てくる、日本人の大好きな「みんな一緒」の精神だ。だから、留年者は「おかしい」となる。

海外の留年は、もっと合理的な理由からである。

「わかっていないものを、わかってから進級させる」という発想だ。
(これを「年齢主義」に対して「課程主義」と言う)

その方が、結果的にその子のためになる。ここには「みんな一緒」の精神がないと思われるかもしれないが、形だけの「みんな一緒」よりも、「みんな一緒」のレベルにすることを重視する教育姿勢がある。

学校が、国民を教育するという「装置」だと考えたら合理的な発想だ。

実際、そういった学校制度では、留年とはいえど、そこでちゃんと理解できたら、学年の途中でも年齢の同じ学年に進級ができる(そして、遅れた分をサポートする体制もある)。どちらが本当に「平等」なのだろうか?

日本では、その学年の内容がわからなくても進級できてしまう上、それを復習するための時間が「春休み」には存在しない

むしろ、「やらなくていいよ」と言っているとしか思えない。

桜が散れば、そこで学年のことが全部リセットされるような感覚すら覚えるし、実際に宿題もないから勉強する文化もない。その流れでのチャレンジの「薄い」総復習ドリルなのだ。

これが日本の学校の「4月始まり」の最大の問題点だ

私は、勉強の苦手な子どもたちの学習支援をしているが、このコロナの影響で新学期スタートがストップし、オンラインレッスンを行って、かなり算数に難を抱えていた子が、この長い春休みのおかげで前学年の単元の理解をすることができるようになった子が何人もいる

今の日本の学校制度には、こういう、「実はついていけていない子」を救うシステムがない。
建前では『学習指導要領』に基づいた指導をせよとは言いつつも、それがどれだけ身についているか、身につけさせきれるか、という点はおざなりなのだ。まさに絵に描いた餅だ。

だから、行政の方で、教師経験者を配置して…という施策を導入する所もあるが、十分にできているとは言いがたい。

その結果として起きるのは、国家全体の教育水準の低下に他ならない。

それは『ゆとり教育』のせいではない。
むしろ、『脱ゆとり』のせいで、内容が増え、高度になることで「ついていけない」子がどんどん増えていくしかないからだ。

こういう話をすると、「勉強だけが大事ではない」という話にもなるが、だったら、「勉強だけ」で評価しないようにしてもらいたい。が、それができていない現実がある。
大学はAO入学などあるが、高校はそうではないのがその最たる例だ。

勉強である程度頑張らないといけない現実がある

だったら、本来であれば、『脱ゆとり』をするのであれば、そこについていけない子を配慮する「仕組み」が必要だったのに、それがないのが現実で、資金もない学校にそれを期待するのは間違いだ。

結果、親の経済力が子どもの学力を決める「学力格差」が拡大する。

子どもが学校で習ったことを復習しきれずに進級し、結局基礎が身についていないので、進級した学年での勉強についていくことができなくなる。
それを、経済力がある家庭では、家庭教師をつけるなりして普段からフォローすることもできるが、それができない家庭の子はどうしたらいいのだろうか?

新しいことも学びつつ、前の学年のことを復習するなんて、子ども自身には絶対にできない。できる子であれば、そもそも成績が悪くなることはない。

そして結局、夏休みにやっと「夏期講習」を受けてそれなりにする、というようなことが平然と行われている。それでも「夏期講習」に参加できるならまだましだ。そこに参加できない家庭の子は?

そういう意味で、理想ではなく現実的に考えて、
1学年の終わりの休みは2ヶ月ぐらいの休み期間にして、そこでしっかりと前の学年のことを復習出来るように、希望者は学校で復習出来るようにした方が、絶対に全体の教育水準は上がるし、「教育格差」はなくなる。もちろん、希望する人は塾で学んでもいい。

でも今は、「長い休み」である夏休みが、「1学期だけの復習の宿題」「受験のため」の期間になっているのが現実だ。

とても、長期休暇が教育レベルを上げるため機能しているとはいいがたい。それこそ、「宿題がないとダラダラする」休みにならざるを得ない。

本来は、普段の授業やテストで定着しきれなかった部分を補う、挽回するための最大のチャンスである「学期後の長期休暇」が、ただの長い休みになってしまっており、「冬休みを長くして」「春休みを長くして」という議論が生まれないのも悲しい話である。それは、この「夏休みで受験準備」というのも影響しているのかもしれないが・・・。

これからの夏休みは、昔の夏休みとは違う

近年、地球温暖化とヒートアイランドの影響で、夏はかなり暑くなっているのは皆さんご承知の通りだ。

私が子どもの頃は、クーラーが各部屋にないどころか、家にクーラーがない所も珍しくはなかった(少なくとも我が家にはなかった)。

だから、夏休みの勉強は「涼しい午前中にしましょう」と教えられていたし、夏の勉強の手引きを書いたものにも、その文言が記載されていた記憶がある。

しかし、今はどうだろう。

エアコン無しでは過ごせないような暑さが続く夏が多くなった。

あまりにも暑すぎて、プール出校日が中止になることすらある。プールサイドが熱中症の温床になるからだ。

そのことを忘れているかのように、今の学校は、マスクとメガネをしているのに、さらにフェイスシールドをしたりする、暑さ対策を忘れた教育現場もある。さらに夏休みを短縮して大丈夫なのだろうか?

もちろん中には、マスクをさせる分、「傘を差させる」ということで、熱がこもる帽子を避け、同時にソーシャルディスタンスを保つように考えて実行する学校もある。

そもそも、今年は「マスクをしないといけない夏」になる可能性が高い。

ということは、今まで以上に熱中症になる危険性が高い夏になると言うことだ。

それなのに、コロナの影響で学校が休校していた自治体では、「夏休みを短縮して授業を行う」とするところがほとんどだ。

エアコンを完備していればまだいいかもしれないが、エアコンを完備していない学校もあるとしたらゾッとする。そして、それが現実だと思う。

実際「エアコンを完備できないので夏休みの短縮は行わない」とする学校もある。賢明な処置だろう。経済活動が鈍化することで、エアコンの整備も遅れることもあるだろう。

その中で、「4月から3月まで」と決めている『学校教育法』に従い、頑張って3月に終わらそうとするのは、はたして合理的なのだろうか?

というか、できるのだろうか??

「休校」はもうないのか?

さらに懸念材料がある。
そもそも、本当にもう「休校」はないのだろうか??

北九州市では、第二波かと思われる感染爆発が起こりつつあり、感染者が出た学校が休校になった。

こういうことが今後も起こらないという「保証」があれば、頑張って3月までに全課程を終わらせるのでもいいだろう。

しかし、そんな保証を誰ができるのだろうか?

今まで休校をしてきた大都市圏は、人口密度が高いため、再びクラスターが拡大することは大いにあり得る。

つまり、再び休校になる可能性はゼロではない

それなのに、6月から休校が解除されるからと、夏休みを短くする計画を立てて、3月までのプランを立てているのだろうが、第2波第3波が拡大し、またもし1ヶ月なり休校したら、次はどうするのだろうか?

夏休みをつぶして、次は土曜にやるしかなくなるだろう。
しかし、土曜が休みが前提の教室サービスはかなりある。反発は必至だし、それこそ失業者が出る。「勉強だけじゃない」を真逆に行くことにもなる。

どうしても「3月までに終わらせる」というつもりなら、そもそも、感染者の出ていない学校は閉じずに、感染者が出た瞬間に休校する措置をとるしかなかった。実際にそういう国もある。

なぜなら、今後もこういうことが起こりうるからだ。

「みんな一緒に」休校にすることで、社会全体の「休校期間」が伸びる。

その政策を選択した以上、「終わり」を遅らせるプランも考えてほしい。

「終わり」を遅らせることで、子どもも教師も負担が減るし、世代間の「不平等」も減っていくだろう。

別に「9月入学」制度にこだわる必要はない

「来年5月終了をメドに」としてもいい。経済界にも、5月採用ないしは6月採用にしてもらうこと自体は、採用を遅らせている企業があるからできるはずだ。

そして、その翌年にはそれを4月にして、さらにその翌年は3月に戻して、通常運転にしてもいい。

別に「9月入学」に合わせてゴールにする必要はない。

やりながら、「6月終わりの9月入学」制度が始まってもいい。

今のコロナ感染の状況、最近の夏の状況、格差を助長している春休みの状況を鑑みれば、そうすることが最も、メリットが大きいと私は思う。

「この1年」が長くなれば、甲子園中止や高校総体など、中止されたものの代替的な地方大会がある程度実施することだってでき、学習の負担も軽減でき、最高学年の人が被っている負担を軽減することにも繋がる可能性だってある。

というか、そうしないと「教育の平等」は保たれないのではなかろうか?

そもそも、入学式は終わっている所が多いのに、「今年の9月入学」を考える人は頭がどうかしていると思うが、考えるなら「来年以降の9月入学」ではなかろうか?

つまり、「今年度を延長するか否か」という議論がまず先だろう

経済界だって、就職を少し遅らせてくれた方が、給料を払わなくていいのだから、その方が本当はいいという所もあるだろう。そういう意見を採り上げて考えていく流れがほしい。

その先で「9月入学の是非」を考えたらどうだろうか?

「オンライン授業」は救世主にはならない

3月までに終わらせる救世主として、「オンライン授業」を言う人もいるのは承知しているが、3月までに完全配備して実施して、マイナスを補うのはいささかムリがあるように思う。

実際、オンライン授業をしている学校は1割にも満たず、またその環境がない家庭への「配慮」を重視する日本では、そんなにスピード感のある対応はできないと思うからだ。

これが政策として、「3月までに終わらせる。だからオンライン教育100%にするために惜しみなく予算を使う」となればいいが、今まで教育の予算をかけてこなかった現実から鑑みて、いくら予算を追加したとて、ムリとしか言えない。現場の受け入れ体制も整っていない。

Wi-Fiルーター貸与も台数が足りないし、通信料補助も、端末がない人への補助も必要になる。特に親しかスマホを持っていない家庭もあったりして、親がいない時間のオンライン授業を始められないとする自治体もある。

では、録画したDVDを渡せばとも思うが、プレーヤーがないとか、それを焼く手間と費用はどうするのという話も出てくる。

ようするに、まとまらないのである。

現実的に「絶対できる」という保証はない。

もちろん、今後もオンライン授業できる仕組みを作って行くことは必要であるし、不登校の子に対してもそうだし、録画して「再び授業を見返す」ことができるようになれば、学習の遅れを取り戻すこともできるようになる。DVDや、それもムリなら学校で補習するといったような、多様な対策をしていくことで、蜜を避けながら学習を進めることもできる。

しかしそれこそ、この3月までにやるのは難しいだろう。

なぜなら、いつ休校になるかわからない中で、教師たちは、3月までに終わらせることに全力で子どもたちと向き合わなければならないからだ。

そして、それすらも、現実には怪しい。
授業のスピードが速くなって、理解できない子がどんどん増えるしかないからだ。

「この夏」こそ未知数だ

だから私は、だったら、もっとゆとりある(ストレッチな)ゴールを設定しておく方が、子どもたちのためにもいいと思うのだ。

前述したように、長い休校期間があったところもなかったところも、一律で来年の5月とか6月終わりぐらいにしておけば、結果的に「9月入学」になるかもしれないし、終わりを1年ずつ6月から5月、4月、3月と戻すことだっていい。

個人的には9月入学にしておいた方が色々安心だと思うが、コロナの影響で世界が9月入学のままであるとは限らないわけで、5年くらいかけてゆっくり議論していく時間だってとれる。


でも今の教育現場の現実として、「クソ暑い夏」がデフォルトになった今、なんとか3月中に終わらせるために「夏休みをアテにする」施策しか出ていないのが、とにかく心配でならない。

むしろ、「夏休みを長くする」ことを議論していかないといけない時代なのに。

学校にクーラーを完備したとして、朝から暑いこともしばしばある。

「コロナで来たくない人は学校に来なくていい」というのがあるように、「猛暑で来たくない人は学校に来なくていい」ということが起こりうる。

ということは、結局学校制度そのものを見直さなければいけなくなるのは必然であり、どのみち、誰かに影響は起こるし、社会も変わっていかざるえをえなくなる部分もある。

ICTの導入により、子どもたちの学びがキチンとフォローできるようになればいいが、それがじゃぁ全国民に対して、「今」できるかというとかなり不透明だ。

大変革と言われた脱ゆとりの時にそれをやらなかった(やれなかった)ワケなのに、それが先行きの見えない1年未満で急に出来るハズがない

学校単位ではできると思うし、以前から『スタディサプリ』を導入している学校もある。

でも、全国ではできない。

そういうことを考えると、「いつ終わり」にするかということを決められるのは、政府の政策しかない。

しかし、コロナ対策の主導者は経産省の大臣で、政策も専門家の意見に乗っかっているだけなので、アテにならない。国家としての政策が、経産省が推し進める「EdTech」とマッチすれば解決という青写真を描かれそうな予感もする。

だから、この夏の学校は怖い。

とにかく、
コロナの死者よりも、熱中症での死者が多くならないことを祈るばかりだ。


という感じで、賛否の議論になりがちな「9月入学」をゴールとせずに、現状での問題点の解消として、「1年」を長くするのが、一番合理的な、より一時的なゴールかなと感じたわけです。

色々な障害があるのはもちろんだが、「特例的に」「今の最終学年の子たちのことを配慮」して全てを丸く収めるには、それしかないのでは?

と思います。

が、現実はそう甘くはなく、「今の最終学年の子」はあらゆることで不利益を被ることになるだろう。それに対して著名人がフォローすることもあるが、全員にはしきれない。

私はそれが心苦しい。

とりあえず明日から、子どもたちの、特に今年受験生の子どもたちの勉強を必死で見ていくことになりますが、無能な大人たちのようにならないよう、苦難に負けないように導いていきたいと思います。

おそらく、それが、この世代にとっての、ある意味「財産」になると思います。いい意味ではないにしろ、誰よりも「考えられる」世代に、なっていくのではないでしょうか??

もちろん、その逆の「失われた世代」とされたり、卑屈に感じる子の方がおおくなるような気もしますが・・・。そうことを考えない大人が多すぎる。

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