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「死んだ方がいい」についての考察

世の中の大多数は、超がつくほどの善良な人ではないが、ほどほどに善良な人たちである。

でなくば、われわれは青信号で渡っていてもひき殺されているだろうし、ネットサーフィンしたらウィルスまみれになってるだろうし、給料日なのにお金が入ってないと嘆く世の中になっているだろう。良心がなければ、世の中は成り立たないのだ。

そういう意味で、貧困や紛争は、人間の良心を崩す大きなファクターであるので解決するに値する問題だ(※「貧困」と「貧しさ」は似てるようで違う)。

さて、そんな「良心」に支えられている世の中だが、その良心を食い物にしたりする人間も少なくない。もちろん、多数派ではないけれど、現実にいるのは確かだ。私の周りでも、そういった人に苦しめられている人が何人もいる。

そういう人たちに共通するのは、なぜか、被害者であるハズの方の人が「死んだ方がいい」とか、それに近いような感じ方で、自分を責めているのだ。

ネットで「死んだ方がいい」と検索してみたところ、出てくるのは、ネットにありがちな、責任がないから言える暴言というか愚痴みたいなものももちろんあるんだけど、もっと気になったのが「自分は死んだ方がいいか?」と悩む人がいることだ。先にあげたような人もそうだが、なんというか、リストカットにお世話になってる系な人も多いだろう。

しかし、私がいろんな人、なかでも、実際に死んだ方がいいような人間を目の当たりにしている私なんかからすると、自分で自分を責めることができるのは、正常な人間である証だと思う

本当に死んだ方がいい人間は、自らを省みることも、反省することもしない。

人間が成長するのに必要な、現実と向き合うこと、悩むこと、自分を変化させることをまったく拒否している彼らは、人を責めることでしか、自分という存在を維持できない。

そのため、精神的にひどく幼く見えるのだが、それを見せないように振る舞ってすらいる(なぜなら、指摘されるのも嫌だから)。

だから、「表面的には」いい人だが、よくよく見ると、全然いい人じゃない、という人が多い。

ニュースでインタビューされるような、ちょっとした顔見知りなら気付かないが、深く接するようになると、その本性を現すこともある。もちろん、外には出さずに二人だけの時だけ見せるので、当事者は混乱してしまう・・・・というのがDVや家庭内モラルハラスメントから逃げ出せない被害者を生むことにも繋がっている。

もちろん、そういう人たちは、加害者のくせに被害者ぶったりするのも得意だ。

まぁ、そんな人たちを簡単に言ってしまうなら、誤解を恐れずに言えば、死んでも治らないから、死んだ方がいい人、というわけだ。
正常な人間にあるような感性がまったくない場合は特に。

「死んだ方がいい」と悩むのが悪いことではないと私が思うのは、それは「良心」があるからこそ生まれる考え方だと思うからだ。

実際に良心のカケラもないような人は、平気で空涙をながすし、平気でウソをつくし、平気で人の権利をふみにじるし、平気で人の未来をぶち壊す・・・・・そういった人は、自分のことを「死んだ方がいい」などと悩むことはない。そういう人が「死んだ方がいい」と私は思う。

そう言うと、「それは言い過ぎだ」とか「誰だってそういう感情がある」という声があがりそうなものだが、それが「時々」そうだ、という言い分ならわかる。

だが、現実として、そういう、良心が、本当にカケラすらないような人は、それが「時々」ではなく、「常に」そうなのである。だから、自分で自分のことを、「死んだ方がいい」などと悩むことはおそらく一度もないであろう。というか、悩むことは無駄だとすら、思っているだろう。

それはなぜか?

悩まずにうまくやれる方法を知っているからだ。

もちろんそこには誰か犠牲になっている人がいるのだが、そんなことを見もしないし、当然、感謝もしない。そうなれば自然と人と信頼関係を築くことは難しくなる。

だけど、そういうやり方から脱しようとすることはない。

なぜなら、自分のことを省みることがないからだ。そんな「無駄」なことをするくらいなら、楽に、人を利用できる方法を探す・・・・・そんな人なのである。

よく聞かれるんですけど、「俺のしてることはパワハラなのか?」とか、「妻を殴った俺は死んでしまった方がいい」とか、そうやって悩めるうちは、正常である証拠だ。「死んだ方がいい」というのもまたしかり。人間、悪い行いはしても、それを反省できえば救いがある。

現代はあまりにも善悪の基準が曖昧模糊としているせいか、罪を感じなくてもいいことまで「みんながそう言うから」とか、「周りと違うことしてるから」とか、そんな理由とは言えないような理由で、自分を責めるようになる人が多いんじゃないかと私は思う。

「死んだ方がいいか?」

なんて、食うや食わずかの時代からしたら贅沢な悩みだとは言えるかもしれないが、逆に言えば、みんな食えるからこそ、無駄飯喰らいは死んだ方がいい、なんていう方向に風が流れやすいのだろう。

人間の「知性」なんてものは、時代が変わろうと大した進歩を見せてはいない。自分より下を作って安心する性質が、どこかにあるのだ。

かくいう私も、そういうことがわからないでキーキー馬鹿みたいにほざきやがってる頭の悪いインテリ気取りを下に見ることで優越感を感じるのだから、大きなことは言えないのだが、まぁ、人間なんてこういう、「ある程度」醜い感情がある方が普通であり、正常なのだ。

性善説を信じても別にいいが、「今は死んだ方がいい人」がいるのは認めよう。残念ながら、いるのだ。それも、警察に捕まらないようにうまいこと法の編み目をぬったりしながら、現実の世界に紛れている。

紛れているんだから、カモフラージュとして「いい人」を演じてることだってザラだ。そのことで良心がとがめることはないかって? とがめないから、「死んだ方がいい」んじゃないかな?

本当に「死んだ方がいい」人間は、「自分は死んだ方がいい存在なのか?」と悩むことは「絶対」にない(※イコール、「死んだ方がいい」と悩まない人は死んだ方がいい、ということでは決してない。悩まずにいられるならそれにこしたことはない)。

そして、人をかなり傷つけているにもかかわらず少しも悩まないからこそ、「死んでほしい」と思うのが、ごく普通の、まともな感性をした人の考え方というものであろう。

もちろん、悟りを拓いた人は別だが、そういった人は大多数の「ごく普通の」人ではないのも事実だからねぇ。また、多くの人の「そう思っちゃいけない」という良心に、甘えてるのもそういう人の特徴だ。徹底的に、責められることから逃げる。

だから私はこう思うのだ。

「死んだ方がいい」と言われたから「死んだ方がいいのか?」と悩むのは、あまり生産的な悩みではない。むしろ、あなたが「死んだ方がいい」と思うようしむけられているだけなのだと考えてみたら、楽になれるんじゃないかな、と私は思う。

あなたにそう思わせるということ自体に、「悪意」を感じないだろうか?

私は、「死んだ方がいい人」に、どうやって自分のしてることがかなり異常で人を苦しめているのかわかってもらえないかと考えている最中なので(無理なんだけど)、そんな、「死なんでもいい人」が、「死んだ方がいいのか」などと悩むことがもったいなくて仕方ないと思ったわけです、ハイ。

ま、ホントに「死んだ方がいい人」については、いい死に方しないだろうけどねぇ・・・って思うのが一番てっとりばやいかね。

(本記事は2009年5月21日にFC2ブログで公開した内容の転載です)

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