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三途の川はバリアフリーじゃなかった(前編)

2013年、僕は手術のために入院していた。
心肺停止に陥り、生死の世界をさまよった。
これは、当時の記録だ。

2013年4月24日

入院当日。
朝、すっかり寝坊して、準備に手間取り、出発が出遅れた。
手術後、僕はしばらく喋ることができなくなるらしい。
社員の洞田が誕生日プレゼントにと、おしゃれな筆談グッズをくれた。
彼も朝が弱いのにちゃんと起きて、渡しに来てくれて嬉しかった。

病院に到着し、早々に手続きが終わると病院に案内された。
病室は驚くほど雰囲気が暗く、早速、気が滅入りそうだった。
看護師さんに窓側の部屋に変えて欲しいと直訴したところ、
空いていないと即座に返答され、いよいよ落ち込んだ。

オペ後の流動食は、鼻から胃にチューブが通されるらしく、聞いただけでゾッとしたし、鼻の穴が痒くなる気がした。

窓側でもなんでも、やっぱり病室の雰囲気は精神的にキツイ。
気持ちで負けたらダメだ。

2013年4月25日

朝から雨が降っていた。
ただでさえ、陰気な病室の雰囲気をより重くさせる。
目が覚めるとまず採血。その後も、採血。
気づけば、僕の右腕は穴だらけだ。

呼吸器内科の診察では、血中の二酸化炭素濃度が高いことを指摘された。
胸骨の変形によって、炭酸ガスの交換がうまくできない身体らしい。
入院期間中に突きつけられる、自分の知らない新しいなにかは、毎度のことながら、ネガティブなことばかりだ。

19時からようやく手術説明を受けた。
術後のリスクを次から次へと矢継ぎ早に並べられる。
今日まで十分に膨らんでいた取り留めの無い不安は、すっかり肥大化した。

僕はどちらかと言うと、臆病者だ。度胸なんてない。

生きていたら、目の前には不安なことばっかりが広がっている。
メールや書類の誤字脱字、エレベーターの有無、大きな仕事の納期。
ビビリだから、いつもちゃんと準備をして、最善をつくす。

不安の対象となる多くのことは、自分の力で変えられる可能性がある。
でも、手術は、自分ではどうにもならない。
いつも大きな不安を前にすると、「なるようにしかならない」、「なんとかなる」とか、そんな楽観的なことを言ってきた。

今は、口が裂けてもこんなこと言えない。
楽観的に考えたり、そういった発言ができるのは、なんらかの裏付けや確固たる自信があるときだけだと思う。
もしくは、どうでもいい、投げやりになっている時だ。
今回は自信も確証もない。もちろん投げやりにもなれない。

ただひとつだけ、今日をポジティブに捉えることができる。
こういう夜を超えて、成長してきた。強くなった。
また「なんとかなる」と言える日が必ずくる。……と、思う。

2013年4月26日

看護師さんが「行きましょう」と呼びに来た。
なにがあってもいいように、ベッド周りは片付けた。

フロアを移動すると、大勢の看護師さんが待ち構えていた。
いつものおんぼろビジネスホテルも、年末に家族でいった旅館でもこんなに多くの人に迎えられることはまずありえない。

ベッドには自分で移った。服を脱がされた。
左手からラインを取って、すぐに麻酔で落ちた。

2013年4月27日

7時間もかかる、大手術だった。
通常の病室に戻るはずだった僕は、集中治療室に運ばれた。
手術が終わっても、僕は自発呼吸ができず、人工呼吸器を着けていた。
目が覚めると呼吸器の痛みがあるので、鎮痛剤でずっと眠っていた。
この時の記憶は、まったく無い。

手術中、僕の呼吸は停止した。不測の事態だったそうだ。

ドリンカーの救命曲線、というのがある。

呼吸停止2分後に人工呼吸を始めると90%くらいの確立で生命を救えるが、
3分後は75%、4分後は50%、そして5分後は25%となり、10分後にほぼ0になる。

僕の呼吸が停止したのは、5分間。
命が助かる確率は、25%。僕は、生き残った。

2013年4月28日

鎮痛剤が一時的に減った時、僕はぼんやりと目を覚ました。

ベッドの横で安心して涙を流す母の手に
「ミライロ」「連絡」と、震える指で字を書いた。

しばらくして、筆談ボードをもらった。
意識が朦朧としていたからか、「へへいわわ」と、よく意味のわからない言葉しか書けなかった。

時間の感覚が全くなくて、何日経ったかを尋ねた。
3日経った、と言われて、驚いた。

この日もほとんど、僕は寝ていた。

2013年4月29日

自発呼吸はまだ不安定で、呼吸器が外れなかった。
会話は筆談ボードで少しだけど、できるようになった。

「今日は何日?」と尋ねると、母は「4月29日」と答えた。
「明日は何日?」と尋ねると、母は「4月30日」と答えた。
じゃあ、その次の日はいつだっけ。

母は、僕がまるでおじいちゃんになってしまったみたい、とショックだったそうだ。

と言うのも、僕はずっと不思議な感覚だったからだ。

大きな会議室で仕事のミーティングをしているかと思えば、目の前の景色がパッと病室に切り替わる。
講演の講師をしているかと思えば、パッと病室に切り替わる。

たぶん、夢か、幻覚の類だったと思う。

その繰り返しを経て、僕はようやく、ちゃんと目を覚ました。
スマホを見ると、たくさんのメッセージが届いていた。

手術が終わった僕の身に何が起こったかを、ようやく自覚した。

2013年4月30日

集中治療室から、個室に移った。
でも、ここからが地獄だった。

運が悪く、術後の容態が変わってしまった。
再手術が必要かもしれないと言われた。
夜中に胸が痛みだして、狭心症の疑いが出た。
問診や検査で、結局一睡もできなかった。不安だった。

Wikipediaでたいして興味もないことを調べ込んだり。
置いてあった小説を読み進めたり。
できもしないのに囲碁のアプリをダウンロードしたり。
そんなことを繰り返して、朝になった。

2013年5月1日

レントゲンの結果を見ながら、二人の先生とじっくり話をした。
結果、再手術はしないことになった。
リハビリで容態を良くしていくことができるらしい。

死ななかったのは運が良かったし、結果が良くなかったのは運が悪かった。そう割り切れたのは、生きているんだからなんとかなる、と思えたからかもしれない。

当時の数日の記憶を思い出すだけで、全身が痛む。

全身麻酔のオペなんて、今日まで何度も向き合ってきた。
その内の一回が、死ぬまで忘れられない一回になった。

意識不明になって、このまま目覚めないかも、なんて説明も受けて、身の凍るような思いをしたと母から聞いた。

この3日間が、きっと僕を変えた。

言葉では言い表し難いが、自分の見え方が違う。
垣内俊哉を、だいぶ遠いところから見るようになった。

眠り方を忘れたとか、一気に3キロ痩せたとか、声がでなくなって、言葉が選びづらいとか。
小さなことを言い出せばキリがないが、確実に違う。

生死を彷徨うって、よく言うけど、

「そー、俺も眠れなくなった」
「えー、私もかなり痩せたよー」
「あー、人生観変わるよね。」

僕がこんな会話ができるようになるのは、もう少し色んなことが落ち着いてからだと思う。

色んなことがあった。

痛みも不安も、目を背けたくなる出来事も。

「でも、いいんだ。今、僕は生きている!」

そんなことが言えるように、なった。

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