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アルゴリズムの鬼手

●第一章

     〔1〕

 ーー 2004年  ーー 
 「大橋将棋クラブ」は閑散としていた。
 さほど広くない店内には、桂でできた三寸の足つき将棋盤が並んでいる。どの将棋盤の上にも花の模様が入った藍色の駒袋が置いてあった。
 大橋宗角は父の信夫が経営する都内の将棋道場、大橋将棋クラブの店番をしていた。店内には客がひとりもおらず、大橋が受付に座っているだけだ。
 細身の体に、ライトグレーの長袖シャツ、Gパンといういでたちは、二十八歳の割りには若く見える。鼻は高いが、色白で凹凸が少ないため、平面的に見える顔立ちだ。目にかかりそうな前髪のあいだから、少し垂れ気味の目が優しい光を放っている。
 三月初旬の天気のよい日だった。暖房をつけると少し暑く、外を歩くときもコートが不要になる季節だ。将棋道場の中は薄暗いものの、窓から差し込む日差しは、春の到来を告げているように穏やかだった。
 時刻は午前十時を回ったところだ。客が多いと忙しくて大変だが、だれもいないと、それはそれで暇を持てあます。
 大橋は大きく伸びをすると、昨日解けなかった詰め将棋を考え始めた。
 盤面を頭に入れ、大橋が深い思考に入りかけようとしたとき、店のドアが開く音が聞こえた。
 将棋道場の入り口に男が立っていた。大橋とほぼ同世代であろうか。肌は浅黒く痩せぎすで、銀縁の眼鏡をかけている。後頭部には尖った形の寝癖がついていた。鈍色のくたびれた背広に真っ赤なネクタイがまったく似合っておらず、一見して女性とは縁がなさそうな、冴えない容貌の男だ。
 男は落ち窪んだ目で室内をきょろきょろと見渡した。左馬の駒や対局時計を、物珍しげに見つめていたが、大橋に気づくと、小股でちょこちょこと歩いてきた。
 受付に向かうと、男は大橋の並べていた盤面を見ながら、変声期前の子供のような甲高い声で訊ねた。
「ここ、将棋打てますか?」
「え、ええ。将棋なら指せますけど……」
 大橋は苦笑交じりに頷いた。将棋は囲碁や麻雀とは違い、「打つ」ではなく「指す」だ。
 男は盤面から目を離すと、寝癖の部分を人差し指でぽりぽりとかいた。背広の肘の部分がこすれて光っている。よく見ると、ズボンの丈もやや短くて、白い靴下が顔を覗かせていた。
「お一人ですか?」
 大橋の質問には答えず、男は受付にあった将棋雑誌を手に取ると、興味なさそうにぱらぱらとめくりながら、横目で大橋を見た。
「じゃあ、あなたと打てますよね?」
「ええ、そりゃまあ」
 男は当然のような顔で頷き、雑誌を投げるようにカウンターに放った。
「ここがいい……」
 そう呟きながら、男は受付に最も近い席の将棋盤を掌で乱暴に叩き、椅子に腰掛けた。それから駒袋に入っていた駒を無造作にぶちまけ、たどたどしい手つきで駒を並べ始めた。
 この男が将棋道場に慣れていないのは一目瞭然だった。将棋を覚えて少々強くなったので、会社をさぼり、町の将棋道場で腕試しをしたくなった、というところであろうか。態度が横柄なのは虚勢を張っているのだろう。
 大橋が男の対面の席に座ったとき、男はすでに駒を並べ終えていた。急いで並べたせいか、駒が真っ直ぐになっておらず、升目からはみ出している駒や、横を向いている駒がある。大橋陣の飛車と角の位置は逆に並べられていた。
 大橋は駒を丁寧に直すと、自陣に間違えて並べてあった飛車と角を、そのまま駒袋にしまい込んだ。
「なにをするんです?」
 男が怪訝な面持ちで訊ねた。
「駒落ちで指しましょう」
 駒落ちとは、強いほうの人間がいくつかの駒を落として戦うものだ。飛車と角を落とすのは、二枚落ち(飛車角落ち)と呼ばれ、かなりのハンデを与えるときの慣用句にもなっている。
 男は憮然とした表情で強く言い放った。
「そんなハンデは必要ないですよ」
 大橋は男を怒らせないよう気を配りながら、穏やかに笑みを浮かべた。
「実は私は奨励会員なんですよ」
 奨励会は日本将棋連盟に属しているプロ育成組織のことだ。日本将棋連盟では四段からプロ棋士として認められるが、現在大橋は奨励会三段リーグに所属している。
 男は人差し指でフレームを触って眼鏡の位置を整え、大橋を見つめた。
「なんです、奨励会員って?」
「プロ棋士の卵です。プロ棋士予備軍と言ったところでしょうか。私は奨励会三段の棋士なんです」
 男は身を引くと、値踏みするような目で大橋をじろじろと見たあと、唇を下品に舐めた。
「でもたかが三段じゃないですか。三段程度なら、その辺にごろごろ転がってますよ」
「プロの三段と、アマチュアの三段は全然レベルが違うんです」
 将棋界にはプロの段位とアマチュアの段位がある。プロの段位とアマチュアの段位とでは、基準が異なっている。実力の差は大きく、アマチュアの四段あたりで、やっとプロの6級あたりと互角に戦える程度だ。奨励会の三段ともなると、プロ棋士と比べてもほとんど遜色がない。
 ところが男は鼻から強く息を吐いて、見下したように口元をゆがめた。
「基準の違った段が、あちこちにあるはずないじゃないですか」
 人を小馬鹿にしたような態度をとるのが彼の癖なのだろうか。薄笑いを浮かべた彼の表情はいささか大橋の癇に障る。
「私は奨励会三段の大橋と申します。失礼ですが、お客様のお名前をよろしいでしょうか?」
 男は一瞬静止すると、面倒くさそうに早口で返答した。
「ああ、僕は渡瀬といいます」
「失礼ですが、渡瀬さんの棋力はどのくらいなのでしょうか?」
「棋力っていうと、何段かということですか?」
「そうです」
 渡瀬は腕を組んで首を傾け、それから大橋に目をやると、少し誇らしげに小鼻をひくつかせた。
「うーん、よくわかりませんが、たぶんプロの人より強いと思いますよ」
 大橋はこの男の顔を改めて見つめた。大橋をからかっているのだろうかとも思ったが、真面目な表情を見る限り、そうでもなさそうだ。大橋は質問を変えてみた。
「じゃあ、渡瀬さんは将棋を覚えてどのくらいになりますか?」
 渡瀬はせわしなく体を揺すりながら答えた。
「僕ですか? 僕自身はルールを覚えて二、三年くらいですかね」
「それでは、棋力はたぶん5級くらいでしょうね」
 5級といえば、ひと通りの専門用語を覚え、サラリーマンなら昼休みに社内で将棋を指しても、さほどひけを取らない程度の実力だ。初級者を脱却して、ある程度将棋の面白さがわかってくるころでもあり、井の中の蛙になる時期でもある。
 渡瀬は上を向いて首をぽきりと鳴らしてから、大橋に挑戦的な目を向けた。
「ですから、プロよりも強いって言ってるじゃないですか。もちろん大橋さん、あなたよりもね」
「私はプロの卵なんです。こう言ってはなんですが、アマチュアで私に勝てる方なんて、ほとんどいませんよ」
 渡瀬が耳障りな声で笑い声を立てた。
「ははは。わからない人だね。僕はプロより強いって言ってるじゃないですか」
 大橋は渡瀬の言葉を聞き流し、盤面に目を移した。
「もし上手になりたいんでしたら、二枚落ちで指したほうが、きっと勉強になるし、面白いと思いますよ」
「なんで自分より弱い相手にハンデをもらうんですか。ハンデなんかいりませんよ。賭けたっていいくらいだ」
 大橋は眉をひそめ、渡瀬をたしなめた。
「そういうことを無闇に言わないほうがいいですよ。世の中には悪い人間もいます。言葉巧みに持ちかけて賭け将棋に誘い、お金を巻き上げる怖い輩が、将棋道場にはたくさんいますから」
 渡瀬は奥の銀歯が見えるほど口を開けて笑った。
「賭け将棋? そんなことをしたら、僕にお金を巻き上げられるのが関の山ですよ」
 渡瀬はふと思いついたように指を鳴らした。
「ああ、なんなら、僕と賭けてやりますか? 僕はいくらでもいいですよ」
「本気でおっしゃっているんですか?」
 渡瀬は挑発するように、口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「もちろんです。あなたに僕と勝負する勇気があるならね」
「奨励会員の私に、賭け将棋を挑んでいると受け取ってよろしいんですね?」
 次第に大橋の語気が強まっていったが、渡瀬はまったく意に介していないようだった。
「挑むなんてとんでもない。挑むっていうのは、弱い者が強い者に挑戦するときの言い方でしょう。この場合は僕が胸を貸してやるといったところでしょうか」
 大橋は渡瀬に怒りを気取られないよう、努めて冷静に言った。
「そこまでおっしゃるのなら、賭けてやりましょう」
「じゃあ、百万円ほど賭けますか?」
「なんですって?」
「あなたには勝つ自信があるんでしょ? 僕にも勝つ自信があります。ですから賭け金は多ければ多いほどいい」
「私はいいですよ」
 強い口調で言い放ったつもりだったが、声が少し裏返っていた。
 もちろん表向きには奨励会員の賭け将棋は禁止されている。しかし、この男はそのことを忘れさせるほど、大橋の感情を逆撫でした。百万円を賭けるとまで言われて、聞き流すほど大橋は人格者ではない。
 渡瀬は八百円の定食を賭けるかのような気軽な口調で、大橋に念を押した。
「それではひと勝負百万円でいいですね?」
 いっこうに臆さない渡瀬の言葉に、大橋は一瞬言葉に詰まった。もしかすると、渡瀬は真剣師ではないだろうかという考えが頭をよぎったのだ。
 賭け将棋のことを真剣と呼び、賭け将棋を生業にしているアマチュアは真剣師と呼ばれる。ひと昔前なら、プロにも匹敵する実力を持つ真剣師はいた。「東海の鬼」と呼ばれた故花村元司九段は、昭和十九年異例の五段試験に合格し、木村十四世名人門に入った。
 しかしメディアの発達した現在では、将棋の強い人間はほとんどがプロ入りする。プロを凌ぐほどの実力の持ち主が在野に隠れていることなど、ほとんどない。
 真剣師といえばプロになれなかった者がほとんどだ。もし仮に渡瀬が真剣師だとしても、奨励会三段の大橋が負ける要素はほとんどない。
 大橋は改めて渡瀬の顔を見た。別段特別な感情を持っているようには見えず、大橋をカモろうとしているふうでもない。ただ、落ち窪んだ渡瀬の目は自信に満ちた光を放っていた。
 やはり渡瀬は将棋の世界の常識をいまひとつわかっていないと考えるのが妥当だろう。
 最近ではインターネットで将棋を始める人間が多い。そのせいか、将棋道場で年長者に揉まれて強くなる人間は少なくなっている。
 将棋道場に通えば、強い人間とも対局し、棋界の常識についていろいろと教えてもらう機会もあるが、インターネットでは対局すればそれで終わりである。そのためゲーム感覚で将棋を指す人間も多い。
 だから渡瀬はプロとアマの段位の違いさえもわからないのだ。彼はインターネット対戦で強くなり、三段の人間にも負けなくなったのかもしれない。将棋を始めて二、三年で三段に勝てるようになったとしたら、かなりの上達ぶりだと言えるだろう。腕自慢が高じて、天狗になっているとしても仕方がない。
 そう思って見れば、渡瀬はいかにもコンピュータ好きのオタクのような容貌をしている。人と話すときにあまり目を合わせようとしないし、所作もロボットのように不恰好だ。ヒューマンスキルも低く、人間としての感情が欠落しているようにも感じられる。
 渡瀬のような人間はこれから増えてくるだろう。しょせんは素人の戯言ではないか。優しく諭してあげるのが、上級者の務めなのだろう。
 とはいえ渡瀬の暴言を受け流す気にはさらさらなれない。こてんぱんに負かしたあとで、ものの道理を教えてやればよい。無論お金も受け取るつもりなどない。ただ小生意気なこの男の吠え面を見たいだけだ。
 大橋は決心すると、渡瀬に告げた。
「ええ、それでは平手(お互いハンディキャップなしで指す普通の将棋のこと)で指しましょう」
「じゃあ先手を決めましょうか?」
 渡瀬が振り駒を知らなかったので、じゃんけんをして、先手後手を決めた。大橋が勝ち、大橋の先手になった。
 素人相手とはいえ、いちおう百万円の真剣だ。決して負けるわけにはいかない。大橋は気を引き締めた。
 大橋が▲7六歩と角道を開けて、勝負が始まった。そのとき渡瀬がにやりと笑ったような気がした。

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