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【パロディ】夢十夜(第十七夜)

 第十七夜

 何でも将棋を指している。
 銀将が毎手毎手すこしの絶間なく真っ直ぐに進んで行く。凄じい勢いである。けれどもどこへ行くんだか分らない。ただ角頭を目指して3八、2七、2六と進む。しかし敵は1四に歩を突いて銀が1五へと繰り出すのを妨いできた。辛うじて1五歩と突き、同歩に同銀と1五の地点に銀を繰り出した。銀は1一の香車の餌食になるばかりだが、これは銀を捌く策である。ところが敵は1三歩と銀を無視して2四歩、同歩、同銀でも3三の銀を2二に引っ込んでしまった。銀は凄じい音を立ててその跡を追かけて行く。けれども決して追つかない。
 自分は、脇で助言する男を捕まえて聞いて見た。
「この銀は捌けるんですか」
 脇の男は怪訝な顔をして、しばらく自分を見ていたが、やがて、
「なぜ」と問い返した。
「逃げる銀を追かけるようだから」
 脇の男はからからと笑った。そうして向うの方へ行ってしまった。
「真っ直ぐ行く銀の、果は銀交換か。それは本真か。守る銀の、果ては交換か。それも本真か。銀は敵陣直前。進め進め」と囃している。後ろを見たら、野次馬が大勢寄って、囃し立てていた。
 自分は大変心細くなった。いつ銀が捌ける事か分らない。そうしてどこへ行くのだか知れない。ただ後先考えずに進んでいる事だけはたしかである。その進みはすこぶる速いものであった。際限もなく無謀に見える。時には立ち往生にもなった。ただ銀の動く周囲だけはいつでも駒が避けていた。自分は大変心細かった。こんな銀を進めるよりいっそ角を打って勝負してしまおうかと思った。
 見物人はたくさんいた。たいていは異人のようであった。しかしいろいろな顔をしていた。銀が立ち往生した時、一人の女が他の異人に倚りかかって、しきりに泣いていた。眼を拭く手巾の色が白く見えた。しかし身体には更紗のような洋服を着ていた。この女を見た時に、悲しいのは自分ばかりではないのだと気がついた。
 銀が捌けなくなり、一人で長考していたら、一人の異人が来て、チェスを知ってるかと尋ねた。自分はつまらないから角を打って勝負手を指そうとさえ思っている。チェスなどを知る必要がない。黙っていた。するとその異人がチェスの話をして聞かせた。そうして将棋も象棋もみんなチェス由来のものだと云った。最後にチェスを覚えるかと尋ねた。チェスも将棋も象棋も古代インドのチャトランガが起源である。自分は空を見て黙っていた。
 先程脇で助言した男が向うむきになって、今度は隣の将棋に助言していた。その傍に背の高い立派な男が立って、さすが棒銀の加藤先生――と云っている。助言していた男の小鼻が大変大きく膨らんだ。けれども二人は自分の将棋にはまるで頓着していない様子であった。自分の存在さえ忘れているようであった。
 自分はますますつまらなくなった。とうとう角を打って勝負手を指そうと決心した。それである局面で、あたりに野次馬のいない時分、思い切って角を打ち込んだ。ところが――自分の手が駒を離れて、角と縁が切れたその刹那に、急に角が惜しくなった。心の底からよせばよかったと思った。けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも角を活用しなければならない。ただ大変大事な駒なので、身体は角を離れたけれども、心は容易に角から離れない。しかし捕まえる駒がないから、しだいしだいに守りの金が近づいて来る。いくら逃げても近づいて来る。駒の動きは早かった。
 そのうち角は例の通り金に詰まされて、取られてしまった。自分はどこへ行くんだか判らない銀でも、やっぱり銀を捌いた方がよかったと始めて悟りながら、しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と怒りとを抱いて駒台に手を置いた。




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