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うじうじ

神には懷疑はないであろう、
また動物にも懷疑はないであろう。
懷疑は天使でもなく獸でもない
人間に固有なものである。
人間的な知性の自由は
さしあたり懷疑のうちにある。
自由人といわれる者で
懷疑的でなかったような人を
私は知らない。
        三木清

今日、仕事先でお茶をごちそうになった。

お茶うけの菓子を見た瞬間
わたしはそこから目を逸らさずにいられなかった。

これ以上見てはならないとのとっさの判断だ。

見てはならないと思えば思うほど見ようとしてしまう。

会話に集中した。
幸いに、そこに居たその家の子供が
緊張と物珍しさでいる感じが可愛らしく
話しかけていたら
すっかり菓子のことは忘れていた。

「あ、よかったら、お菓子。お持ち帰りください」

と、紙ナプキンに包んで持たせていただいた。

う、やばい。
どうしよう。

その菓子はわたしの大好物だ。
数少ない自分でわざわざ買うどら焼き。
それも!
白あんどら焼きまであるではないか。
ここのどら焼きは、なんといっても白あんが美味い!
白あん嫌いのわたしが唯一大好きで、
自分で買う時は、つぶあん2個に対して白あん3個〜4個。
ときには白あんだけを5個買ってしまうほどだ。

なんてできたかただろう。
白あんの美味しさを知っているとは!

そう
必死に目を逸していたのは
見入ってしまいそうな自分がいるのと
手を出してガッツキそうな自分がいるからだった。

そして心中では
「明日にでも買いに行ってこよ」
と、思っていた。

帰りがけに茶菓子を
持たせてくれるかくれないかは、ほぼ五分五分だ。

そして
好きな茶菓子の時に限って持たされないことが多い。

そこにきて持たせてくれるなんて
すばらしい!

そして自らを恥じた。

食べたいのなら素直に食べればいいし
持って帰らせていただきますね(^^)、と言えばいいし
もっと言えば、お茶うけは食べない場合は持って帰るのが礼儀でもある。

なのに
イジケて
持たせてもらえないだろな
なんて考えるとは
なんともいじましくて意地汚い。

ちなみのこの場合の
「もたせたくれないだろう」は
猜疑心でもなんでもない。
単なるイジケた根性だ。

いくらなんでもこの話から「今日の言葉」に持っていくような暴挙はできない。

ただ、このどら焼き事件を言わずにおれなかっただけだ。

猜疑心?

そりゃハンパなくあるでしょ。

自分の考えにひたすら「???」をつけていくのが仕事でもある。
他人の言葉や考えを受け止めながら
「なるほど!」と思っても
そこになんらかの「?」を渡すのも仕事だ。

「鵜呑みにできないくせに鵜呑みにしている風はやめましょう」

そんないやらしいことを言い歩いているようなものだ。

「わたしは〇〇です。恥ずかしいです」
「そう言って、恥ずかしいと言っている自分を誇ってやしませんか?」

こんないやらしい、大きなお世話を言って歩いている。

(いや、そこら中の人にではないですよ。
あるていど話ができる間柄になった方にです、いくらなんでも)

猜疑心
悩む心
悔やむ心
妬み、嫉み、恨む心

これはある意味、人間の特権だ。

これを持続させられるのは
いつまでもうじうじとやれるのは
人間ならでは。

そのおかげで
文化も文明も発展してきている。

うじうじをリレーして
次の世代にもうじうじしてもらっている。

これをやめたら
これを不要としていくと
人間の社会は崩壊へと向かう。

うじうじは面倒だから
やっちまえ!
と、戦争は始まる。

うじうじは気分悪いから
だれかにやらせとけばいい!
と、差別や人権侵害、ヘイトやハラスメント行為が横行する。

でも、
結局はうじうじせにゃならんのだ。

勝ってうじうじできない奴は
先が知れている。
すでにもう終わっている。

世界を背負っているような人は
勝とうが負けようが
うじうじ考え続けている。
呆れるほど考えている、いつまでも。

すごいよ。

猜疑心を持てとか
ウジウジしろとか
そんな話ではない。

猜疑心はみなある。
そして
うじうじみんなしている。

嫌がる必要はないということが言いたいだけだ。

「うじうじ」ということばが気に障ったら勘弁。

「熟考」と置き換えて😅

自分にとっては「うじうじ」のほうがしっくりくるもんで😅

最後に
どら焼きに戻ろう。

わたしの好きなどら焼きは

「たねや」のどら焼
それも、ここのどら焼きだけは
絶対に

白あん!

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