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両親と私は対等に話しても良い関係~叔母との連絡後の気づき~




前回の記事を投稿した後、親戚の叔母(父親の弟嫁)から連絡がありました。私が、長い間、親戚との適切な距離感がわからなかった為に、あまり親交はありませんでしたが、数年前から、時々連絡をしてくれるようになりました。今回は約1年ぶりの連絡でした。


叔母は、テレビで宗教2世問題の報道を見るようになってから、私や妹がどんなふうに育てられたかが、ずっと気になっていたとの事でした。
私が関連付けて考えてしまっているのかもしれないのですが...、先日の子供の元担任の先生とのご縁や、この叔母からの連絡のタイミング等が、驚く程に私の向き合いの進み具合とリンクしているように思えて、しかも短期間内に続けて起こるので、やっぱり何か見えない大きな力に導かれているみたい...と思ってしまいました。
叔母に話せる範囲で話し、私が今、自分の過去と向き合い、心の傷を治す努力をしているという話しもしました。
思い出すと、私が小学2~3年の頃に、この叔母に、あんた達(私と妹)何考えちょう?(何を考えているの?)お父さんの言いなりにばっかりなって、あんた達何が楽しい?...と、真剣に、かつ柔らかい表情で聞かれた事がありました。
そんな事を言われても...と思ったかどうかは覚えてはいませんが、その場面で、私は返事に困り、何も言えなかった事を思い出しました。
今になって思えば、この叔母の一見厳しく聞こえるそのひと言は、叔母の本心からの言葉で、本心からの言葉には愛が含まれていて、私を気づかせる為のひとつの種になって、心に届いていたのかもしれません。


その叔母との話しの途中での事。両親の事を話した時、私の中で、急に両親との距離感が、リアルに近く感じられ、私の心身に変化が現れた事から気づいた事がありました。
いつも離れていて、一定の距離を保って、両親の事を考えている時には現れない変化、心身の緊張感と鼓動の速さに気づきました。
自分の内側に聞くと、私は、両親と会う事が本当は怖い...、現実には両親と顔を合わせる事を怖がっている...と気づきました。会いたいと本心では思っているのに、矛盾した、会うのは怖いという感情がその上を覆っていると思いました。
こうして記事を書いている時や平常時なら、穏やかな気持ちも感じ、両親に対しての愛や感謝の気持ちを感じる事が出来るのに、私は、実際に現実に2人と対面で会う事を想像すると、父親が怖い、母親が怖い、という気持ちが先に立ってしまうとわかりました。


両親と対面で出会う事を想像すると、また、面と向かって親から批判されると身構えて怖がり、2人それぞれからまた私の心を傷つけられると、そういう言葉を再び言われると思い、そんな事もう嫌だ、怖い、と思っていた自分が居た事に気づきました。
両親に会う事で、再び三度傷つく事を、私は恐れているんだ...と気づきました。
そして、同時に、これは...、私の思い込みかもしれない...、という事も思いました。
私をいつも傷つける(傷つけていた)両親は怖い存在だという、自分の思い込みが、自分を怖がらせていると。
両親と現実に出会う事を想像すると、過去、幾度となく経験した体験から、私の心が傷つかないように、エゴが発動している。私を恐れという感情で、コントロールしていると、そう思いました。
私は、過去の体験からの思い込みで、両親の事を怖がっているだけだ、と気づきました。


両親の事を、怖がっている自分が居ると自覚した時、驚きました。
そして向き合いで気づいてきたと思っていた、両親への感謝、両親への愛、会えるのなら会いたいという本心、そういう気持ちは、また私は、頭で理解しているだけの、理解しようとしているだけの今なんだろうか...どちらが本当の気持ち?、と少し動揺し、思いました。
また、私はわかっていないの?まだ、わかっていないの?と問いかけました。

更に自分の気持ちを深く感じて、私は、私の親子関係に、上下関係や主従関係のようなものを感じている...という事に気づきました。
これはたぶん宗教教義の影響の名残りと、父親の支配下という環境で育った事によるものだろう、と思いました。
私の育った家族内では、父親が主で、子供達が従う構図で育った為に、主従関係を感じてしまって、私の心身に染み込んでいたんだと思います。
親は、本来は、感謝の対象であるはず、と思いますが、親子は上下関係や主従関係では無いですし、親子関係(と全ての人間関係)は、本来対等で平等なもののはずと思いました。
両親に何かを話す際、伝える際、対等に話して良いんだ、と思いました。誰に対しても行うのと同様に、話し方や言い方、言葉選びはもちろん大切で、
愛と感謝の気持ちを持ちつつ、でも伝えたい事は遠慮せずに伝えても良いはずと思いました。


誰かと対等に話す時、例えば少し伝えにくい事を伝える時等を含めて、何かを伝える時に大切なのは、心の芯にある、愛と感謝の気持ちではないだろうかと思いました。
自分の中のエゴによって感情をコントロールされている事に気づいて、両親は怖くないと、両親の言葉は怖いものではない、恐れるものではない、と気づいたら、私は対面で出会う事をシュミレーションしても、緊張せずに、(現時点では想像の域を出ませんが...)、心身の反応や変化も無く、対等に、平等に、主従関係のような気持ちでは無く、話しが出来る気がしました。
気持ちの根底に、奥深くても心の真ん中に、両親への愛と感謝の気持ちがあるから、あるからこそ言える言葉があるだろうし、言っても大丈夫という信頼する気持ちがあるからこそ、言いにくい事も言えたりする。本音、本心を表現する。愛と感謝の気持ちが根っこにある状態で、どんな気持ちも伝える事。
そういうふうに思った後、もしかしたら、私は自分の気持ちを、手紙で伝えるにせよ、自分の言葉を声に出して話して伝えるにせよ、両親に、素直に伝えられるかもしれないと、そう思いました。
両親には、やはり宗教によるバイアスがあるので、ニュートラルでは無いと、予想しました。私の本音本心が、すぐには届かない事は予測出来ます。それはそれで、仕方のない事です。もう、それでいい...と思いました。
もしも愛の種が届くなら、いつか届くといいなと、そのくらいの気持ちでいようと思いました。


私は、誰に対しても、自分の気持ちを大切にして、自分の思う事を、伝え方を考えて伝えられるようになりたいと思いました。
両親に対して、きっと何も伝わらない、と思い込み、両親が怖い、また傷つけられてしまうと、ずっと思い込み、長い間、自分で自分を縛ってきました。
でも、ずっとそこにいるままでは、私は過去に生きていると思いました。
時は経過して行くのに、私はこれからもずっとそこに、過去に、生き続ける訳にはいかないと思いました。気づいて、過去から出る為に、私はこの向き合いをしてきたのかもしれない...と思いました。
心から感謝して、私は私の人生を生きたいと思いました。
そして、必要ならば、然るべき時に然るべきように物事は展開されていくと、そう信じる自分を信じて。私は、「今」を生きたいと思いました。ただただニュートラルに。自分の心に、従おうと思っています。






お読み頂き、ありがとうございました。





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