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小説 ちんちん短歌 第17話『アフリカ』

 山羊車が止まると、荷物である死体タワーはすこし揺れる。天辺にいた建はずり落ち、死体たちを滑り台のようにして、尻が地面に。下半身が全裸だったので、地面の、じゃりという土の感じが、建の尻に。ちんちんに。

 アフリカ、である。
 
 大地がどこまでも大地で、地平線が見える。夜が明けようとしている。朝ぼらけだ。
 山がない、って思った、建。ヤマトであれば、夜明けは山際からというイメージがあった。だがここでは、太陽は大地から産まれてくるようだった。大地。どこまでフラットで、どこまでも地。土。これほどの土を、建は見たことがない。

 胡人は山羊車から降りると、集落の方に歩む。建もぼんやりと後を追う。すると集落から、わらわらと人がやってくる。
 皆、男。肌が黒い。とにかく黒い。
 黒くて、夜明けの日の光に照らされて反射して、光輝いても見える。上半身半裸で、下半身には艶やかな染物で作られた、前掛けのような民族衣装。
 そのアフリカマンたちは、胡人らと何やら交渉している。長らしき男は精悍かつ、年季の入ったしわしわの顔をしている。その横には、何かあれば殺すという構えを解かない、若い近習がいる。ああ、あれ、ああいうの、やってたなあ、と、建。

 すると、建のところに、若者が一人近づいてくる。
 なにか、異国語で話しかけてくる。当然、建は分からないはずだったが、どういうわけか言葉が脳に直接スカッと入り込んでくる。

「ちんちんを、隠ぁくしてくれませんか」
 若者がそう、告げているのが建にはわかる。

 建は上半身はいつもの赤い韓服を纏っていたが、下半身の下衣がなく、これは疱瘡で倒れる前、汗と下痢が止まらなくて、仕方なく脱ぎっぱなしになったまま死んだからそうなった。ちんちん丸出しスタイルであった。

「もし、あなぁたが……死んでいるなら、別にいいのですが、生きているのならば、ちんちんは隠すべきです」
 アフリカの若者、よく見れば両目のあるべきところに、皿のようなものが埋め込まれている。異形だ。多分盲目だ。皿は白く、陶器であり、皿の中心には黒い点が打たれている。頭蓋をややはみ出す形で、皿の目。白い目。黒い点の目。現実には何も見る事が出来ない目。

「私は長に遣えるシャーマンです。私ぃの目は、生者を見る事はなく、この世の者ではないものが見えます」
 だから、建の姿が見えるのか。いや、生きているのか、死んでいるのか。建はそういった内容の言葉を言おうとし、言おうとした事が仕草となって現れて、手話、というほどはっきりしたものじゃない、まったく言葉にはならないやつなんだけど、その「伝えたい」という空気が、両目が皿のシャーマンには伝わる。

「今ぁーのあなたは、ゆめとおんなじもので出来ている」
 へえ。
「しかし、ちんちんを長の前にこのまま出しておくのは、部族として、許されない」
 なぜだろう。
 
 そういえば、建がヤマトの春日で大伴家持に仕えていた時、家持は建と二人きりの時だけ、ちんちん丸出しだった。家持がちんちん丸出しであった事に、最初はやや違和感があったものの、慣れた、建は。そう、そう、だが、そう、たしかに、あの時俺は、家持の前でちんちんを出せなかったなと思う。自分より上だなって感じの人の前で、ちんちんは出さない。
 そして家持もまた、ミカドに仕えている武官である。家持がミカドのところへ出仕する時、ちんちんは丸出しではなく、下衣をちゃんと履く。

 それはなぜなのだろう。なぜなのか。

「今すぐ、パンツをはいてくれませんか。これはパンツである。死んでいるならいい。だが、今ぁーのあなたは生者のようにふるまっている」
 そういわれ、建、ふと、ちんちんを触る。
 ちんちんに、熱を感じる。よく考えれば不思議だ。ちんちんは、他の部分と比べて、熱を持つことがある。疱瘡のような病的な熱さではない。
 この熱は、なんなのか。

 皿の目のシャーマンは、建に、艶やかなアフリカンパンツを差し出し、地に置いた。朱と青と黄色の糸を幾重にも編み込まれた、艶やかな布。
 いい布だ。
 ちゃんと織機で作った布で、染物もしてある。手の込んだ品。染め部にいた建だからわかる。わかる。わかる。これは、時間と価値と文化の込められたパンツだ。大切なものだ。でも、きっと、このアフリカの部族の中では、もうありふれてしまって普通になってしまったものだ。
 貰ってしまってもいいのか。そして、穿いてしまっていいのか。アフリカンのパンツ。

 建が逡巡しているうちに、胡人とアフリカの長は話がついたようだ。
 長の指示で、若者たちが山羊車のシ達に群がり、担いでいく。山羊のがらがらどんはアフリカマンたちに無言で威圧を与えまくるが、アフリカマンは怯まない。シ達に纏わる疱瘡の毒は大丈夫なのか気になるが、アフリカマン達はそれなりに丁重に、でもやっぱりモノって感じでシ達を担ぐと、建物からやや離れた広場(どこでも広場って感じなんだけど)にシ達を並べていく。

 広場の中央には、棒が建っている。
 その棒を取り囲むように、シが並べられる。先ほどウィキペディアで見た藤村操の肉と骨のシも並べられ、それらは円形に配置された。
 建にはなんとなく察した。
 これは、劇場ではないか。

 建は、パンツをはいた。
 肌が、ざらりとするのがわかる。風だ。パンツをはいたとたん、皮膚が風を強く感じ始めた。熱くて、痛い。乾燥している。ひりついている。建の白く痩せて栄養のなく、疱瘡の水ぶくれの跡が残る肌を、風が焦がしてくる。
 アフリカマンたちの黒光りする肌は、この風を跳ね返している。強い、という事もわかる。

「ああ、生きる事を選びましたか」
 胡人が建の隣に現れて、話しかけてくる。
「いや、選んだっていうか……」
 建は驚く。喉から声が出ている。胡人はニヤリと笑う。
「……垂迹してきやがりましたね、あの方は。いのちと死、祝福とのろいを、建さんの前に置いたんですよ。まんまと、いのちを選んだんですね」
 建は周囲を見渡すが、あの皿の目のシャーマンはいない。
 選んでしまったんだろうか。建はただ、勧められたパンツを手に取り、穿いて、ちんちんを隠しただけなのだけど。
「建さんも見ていきますか、ちょっと」
「なんですか」
「雨ごいですよ」

 広場の中央に立っているのは、巨石を削って作られた石棒だという。ちんちんをかたどっている。花崗岩でできており、あの石棒はかつて、もっと大きく、もっと太かったという。長い年月で高さ二メートル、太さは、両の手のひらで締められるほど小さくなってしまった。乾燥と、日光で、石は削れる。あの石棒が折れたら、このアフリカマン達は、ここがアフリカであることをやめるという。
「どういうことですか。……アフリカをやめる?」
「クニを辞めるということらしいですよ。ほほほん」

 建には、クニというものがわからない。
 もともと、百済に生まれた建。その時には、もう百済なんてなかった。百済を名乗る集団がいて、家族がいて、でも住んでいる場所は高句麗だったり、新羅だったりした。
 ただそれでも、私たちは百済だよ、百済というクニなんだよ、わたしたち、百済人なんだよと言っていた。てっきり、ユニットみたいな、そういう事だと思っていたが、そんな事言ってたらヤマト人に自らの存在を略奪されてしまって、建は大伴家持の奴隷になった。
 クニをやめたのか。あのとき、私たちは。
 そしてヤマト人は、私たちのクニを殺したのか。

 そのヤマトでは、最近、不思議なクニの名乗りを、ミカドを中心にやり始めている。

 日本。

 意味の分からない、二字の文字。いや、わかるんだけど。
 国って普通、字、一文字なんだけどな。それこそ、建の祖先は遼東半島に割拠するとき、伝統的な「燕」という国名を名乗ったし。
 や、だから高句麗とか新羅も百済も、本当の意味ではクニたりえないのかなあ。でも「日本」って国号はあまりにも奇妙だ。「太陽の元」。なんか、意味わかんないくらい意味が通り過ぎて笑っちゃう。キラキラネーム感ある。

「明日までに雨が降らないと、このアフリカの地の民たちは全滅します」
 そうなのか。
「乾燥は限界です。田畑に水が入らねば、来年の生活はありません。石棒が折れるより早く、クニは死にます」
 アフリカマンたちの沈痛な面持ち。皺の多い顔は、皆怒っているように見えたけど、そうか、あれは、耐えていたんだ。
「今から、雨ごいの踊りがはじまるそうです。わたしはそれを……ククッ、見に来たんですよぉ」
 盲目の胡人は笑う。口からよだれを垂らしている。
 胡人は、シの運搬を平素から司っている。そこに、アフリカマン達が雨ごいの儀式をするとのことで、祈りをささげた。雨ごいの踊りのために、シが必要です。シを恵んでください。おねがいします、と。
 胡人はその祈りに感応し、運搬しているシをアフリカマンのために譲ったというわけだった。

 時代を越えて運搬されたシたち。本来であれば、胡人の住む地底のクニへ運ばれるはずだった。今、シは並べられ、地は劇場になった。アフリカマンたちはシたちを観客と見立て、そしてそれは、最も遠い他者である。身内ではない。未知の何かとしてシは扱われ、シに、踊りを見せようとしている。
 これが、雨ごいなのだろうか。シに、死者なんかにダンスを見せて、それが雨になんか、つながるのか。

 女が一人現れた。
 乳に化粧を施し、土で出来た仮面を被っている。やはり皿のような目。目は頭蓋からはみ出すほどの大きさだ。仮面の下は、おそらく外の景色は見えていない。
 腰蓑はいくつもの紐のようなすだれに、ガラスのビーズが先端に括られており。シャラシャラと音を立てている。
 その隙間から、まんこが見える。
 まんこは、遠目から見ても大きく、そして、四角にも見える。まんこの毛は丁寧に洗われて、ストレートであり、美髭で有名な関羽の髭のようだ。

 やがて楽隊の女たちも小走りであらわれる。30人ほどだろうか。たくさんいる。全員若い。幼児のような者もいる。丸坊主で、全員小さな太鼓を胸に抱えている。おっぱいむき出しで、ほぼ全裸。太鼓をたたくためにすべてを捨てた格好で各々シの外側に座る。
 アフリカマンたちは、女たちを邪魔しないように、遠くから見守る。
 気がつけば、家屋から男たちがわらわらと出てきた。乳飲み子もいる。病気で、本来ならば立てない者もいたが、皆、立ってその石棒のまわりの出来事を見守った。

 誰が指揮するわけでもなく、不意に、太鼓が、一斉に連打された。
 トッ、トトトトトトトトトトトトトトトトト……。
 建の知らないリズムだった。想像しなかった速さ!
 その音が場に満ちた時、最初に現れた仮面の女は、石棒に相対し、深く腰を下ろして、蹲踞する。そのままつま先立ちになり、まんこは石棒に向けられ、むき出しになる。しばらくは屈んだまま、身をかがめ、体を、小さく、小さく、小さく、縮め――。
 それが、はじける。
 足踏みが始まる。高速の足踏みだ。つま先立ちの蹲踞の姿勢から、地面をトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトトト! と、やはり切れ間なく、無限にビートを刻み始めた。
 休符がない。
 止まるところがない。
 息を吸うタイミングもない。
 足を地に連打したまま、つま先立ち蹲踞から、徐々に立ち上がっていく。
 目の錯覚かもしれないが、仮面の女が巨大化した。石棒と同じくらいの背に見えた。手は天に延ばされた。足の連打ステップは止まらない。
 その動き。そのゆらぎ。
 足は高速で動いているのに、上半身はまるでゆらりとした、海鼠やタコのような滑らかな動きだ。激しい下半身の動き。足のステップ。なのに、上半身、おっぱいはほとんど揺れていない。上背を傾かせるとゆるやかにおっぱいが動くだけで、ステップの衝撃をすべて、膝で、腿で、鼠径部で、腰で、吸収しているのだ。

「あの踊り手の女は死にます」
「え」
 胡人はにやにやしながら、踊りを見ている。
「踊り手だけじゃない。建さん、見て。太鼓の女たち。あれもー、死にます。死にます」
 胡人が指をさすと、太鼓の女の中の一人、背の低く体の小さい女が、苦悶の表情を浮かべている。
「だって彼女たちはここ数日、食べ物はおろか、ろくに飲み水も口にしていません」
「なんでそんな……」
「なんでって、渇水と飢饉ですから。この村には、食べるものはもう、何もない。飲み水もないんです。当たり前でしょう」
 胡人はぺろりと「当たり前」と口にする。
 建がもと居た、山間の村では、水だけはあった。草も、食べられるかどうかは別として、あった。森の中にさえ分け入れば、何か口にするものはあった。
 だが、このアフリカの地には何もなかった。
「……どうやって、生きてきたんです。今まで」
「殺して生きてきたのでしょう。隣のアフリカから。殺して、奪って。奪えなかったときは、身内で殺し合いをして、その血を啜り、肉を削ぎ、どっこい生きてきたんです」

 ややあって、太鼓をたたいていた少女の一人は倒れた。
 当たり前だった。飲まず食わず。絶食した状態で、太陽が昇ってから、ノンストップの太鼓をたたき続けていたのだ。もともと体調が悪い、というか、寝たきりが必須の、病人だったのだろう。
 それでも、女たちは太鼓をたたく手をやめない。
 音はとぎれない。いっさいの休符はない。

「あなたのクニにも飢えがあるでしょう。疫病もある。同じです。この地の、どこへ行っても同じ。……ただ、このアフリカの民には、踊りがあります。ああいう踊り、建さんのクニにはありますか」

 ない。
 あれほど激しく、苦しく、死ぬまで奏で、そして踊ることなんて。

 仮面の女の踊りは止まらない。高速での足の運び、足の連打は、止まることを知らない。
 アフリカマンの一人がうなり声を上げ、今倒れた太鼓の少女の元に駆け寄ろうとした。それを、他のアフリカマン達が察し、あわてて取り押さえる。
 娘だ、と、言っている気がする。泣いている。
 押さえつけるアフリカマン達も泣いている。

「……雨なんか、降るわけないんですよ。踊りで。この集落は、踊って、この音を奏でて、そして朽ちるんです。朽ちながら、奏で踊るのですよ」
 胡人は満足げに、村の終わりを眺めていた。村の終わりの踊りを見ながら、盲の胡人は笑っている。

 建は、しかし、太鼓のリズムに体がノッていた。
 また一人、少女が倒れる。その瞬間だけ、太鼓の音が、僅かに途切れる。ほんのわずかだが、しかし、途切れが、徐々に増えてきた。
 トトトトト、トトトトトトトトトトトト……
 トトトトトトト、トトト、トト、トト……

 2リズムの3回繰り返しの時に1度。
 2リズムの4回繰り返しの時に1度。

 そのタイミングで空白が生まれたとき、建の体に、なにか、しっくりくるものがある。

 2×3-1、2×4-1、6-1、8-1……。

 5、7、5、7、……7――。

 リズムが消える時は、大勢いる太鼓の少女の中の一人が死ぬ時。
 6回に一度の死、8回に1度の死が起きる時、建の中にあった歌が、突然、喉を通った。

莫囂圓隣大兄爪湯気、わがせこが
 いたたせりけむ、いつかしがもと
(莫囂圓隣之 大兄爪湯気 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本)

 歌は風に乗り、踊る女の手に、足に、胸に、まんこに、纏わりついた。
 すかさず踊り手の女は、手を天にかざす。
 歌を纏った手が、アフリカの空に伸び、それが届くと、そこには黒い雲があった。
 踊る女は、その手にした雲を一気に引き、地へ叩きつける。
 ――石棒に一滴、水滴が滴る。

 建の隣の胡人が、ギン、と顔を建に向ける。
「建さんあんた、何の差配を――」
 盲のはずの目が見開き、額にも第三の黒目が縦に開くほど、建をにらみつける。
 隠していたはずの山羊の角と背中の六枚羽が広がって、牙まで出てしまう。胡人――というか、それがこのサタンの本来の顔なんたろうけど、別に建、気にしない。

 ややあって、細やかな水滴が石棒に連続してかかると、その水滴の群れは一気に広がり、それは、雨になった。
 大地の埃を制し、大粒の雨が地に降り注ぐ。
 耕地に水が行く。死にかけた肉に、潤いがよみがえる。アフリカマンたちの黒い皮膚に、弾力が戻ってくる。
 歓声が上がった。雨ごいは成功した。アフリカマンは喜び、太鼓少女たちはリズムから解放されて仰向けに倒れ、口をあけてその水を舌で受けた。
 踊っていた女は、石棒の近くで、動かなくなり、ただ立っていた。立ち尽くしていた。

 い立たせりけむ、厳橿(いつかし)が元。

 「聖なるカシの木の元で、お立ちになっていらっしゃる――」を体現するかのような立ち方。建はその立ち方を目に焼き付けている。ああ、この歌のいう「い立たせりけむ」というのは、こういう立ち方の事なのか、と、ぼんやり眺めて――。

「たかが雨ごいなんぞで垂迹しくさって、なんという出しゃばりな……。本当はいないくせに、無理をしちゃって……」
 胡人は元の姿に戻りながらも、明らかに不快な顔をしつ、小指の爪を噛む。
 建は胡人の子供っぽい仕草に顔をほころばせているが、胡人、つかつかとがらがらどんのところに戻っていく。
「あ、あの」
 建、雨にびしょぬれになりながら、胡人についていくが、
「何。建さん。あんた別に載せないよ」
「え」
「私はね、シを運搬してるの。なんで生きてる人間を乗せなきゃいけないんです?」
 胡人は荷車に乗り込み、手綱を引く。
 建は慌てて駆け寄りつつ、
「いや、だって、あんたが俺を連れてきたんじゃないか。そもそも……ここからヤマトへはここからどうやって戻れば」
「しらんちん」
 胡人はフンと鼻を鳴らすと、びしょぬれになった燕尾服のまま、杖でがらがらどんをしばく。がらがらどんは不快な唸り声をあげながら、大地を蹴ると、恐るべきスピードで駆け出し、荷車はあっという間に去っていった。

 取り残された建。
 雨が、どんどん強まる。アフリカマンたちはぐったりとした太鼓の少女たちを担いで、家屋に戻っていく。
 踊りを踊っていた女は、やがて石棒に手を触れながら、膝から崩れ落ちていた。
 建、なんとなく踊りの女に近寄ろうとしたが――

「莫囂! 圓隣! 大兄爪湯気!」

 誰かの叫びが聞こえる。
 だが、雨が強い。雨が、すさまじい勢いになり、まともに立っていられない強さになっている!

「……え?」
 地鳴りがする。
 建のへたり込んだ場所は、いつの間にか水の流れができており、よく見ればそこは、周囲より一段低く、地を走る雨水は建の足元で流れを作り始めていた。
 ワジ。
 建のいたそこは、渇いた川だった。雨があれば、ここはすぐに荒れた川になる。
「嘘だろ……」
 濁流だ。一気に来た。最初はくるぶし程度だった。だが、すぐに水はたちまち膝もみたし始めた。
 そして、気がつけば建、膝が崩れ、一瞬で出現した水の流れに飲み込まれてしまう。

「大兄爪湯気!! 大兄爪湯気!」

 誰かの、アフリカの言葉だろう。わからない。パンツを穿き、生を選んでからというもの、未知のクニの人の遣う言語がわからなくなってしまった。言葉って、本当不自由だ。
 身内にしか伝わらない。狭いものだ。
 踊りだったら。リズムだったら。音楽だったら。遠くアフリカの地でも、伝わったのに。
 言葉は、文化の違う他者には、なにも伝わらないな、と思う。
 短歌も、結局そうなのか。
 短歌って、結局は言葉に属するものなのか。
 アフリカの雨ごい踊りは、遠い遠い、在ヤマト百済人である建にも、何かが伝わった。地獄のサタンも、娯楽として楽しむくらい、心に来るものがあった。

 じゃあ、歌は。短歌は。詩歌は。
 わずかに、アフリカの踊りに通じるビートは感じた。感じたんだ。でも、言葉の意味が解らなくて、でも引き寄せられるように歌を、その歌で、踊りの女には、何か、伝えられた? つながった事が? 出来た、……のか? 
 言葉がわからなければ、世界を、時代を、生死を、超えた他者への向こう側には、たどり着けないものなのか?

 思いながら、建。頭はぼんやりさせつつ、そのまま濁流にのみ込まれ、そのまま水に流されて行って、そのままだった。そのまま、そのまま、濁流でできた流れの、そのままの、その向こう側へ、そのまま、流されて行った、と。

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
※【莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣】 吾が背子がい立たせりけむ厳橿が本
(額田王)

万葉集 巻1-9
※「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣」の訓は、2023年現在確定していない。
したがって意味も何もわからない。伝わっていない。
この国の言葉ではないという可能性もある。

 


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