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大阪城をどうしても愛せなかった話

建築オタクにありがちではないでしょうか?オリジナルの建築しか愛せない病。何を隠そう、私もその病を患っている一人です。今日は私が大阪城をどうしても愛せなかったところから、魅力を再発見して大好きになるまでについて書きます。

歴史建築には建築された当時のままの姿を残す「現存(げんぞん)」建築と、火事などで焼失した建物を後から立て直した「再建(さいけん)」建築があります。

再建でも江戸時代までならギリいいけど、それ以降は文化財としてどうなの?的な、現存建築至上主義。これを私は現存コンプレックスと呼んでいます。


バーチャルツアーで大阪城を紹介しました

こんにちは!全国通訳案内士のリサです。

京都を拠点に関西地方で外国から訪れる観光客のプライベートツアーガイドをしています。


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先日のバーチャルツアーでは、日本の城をテーマに大阪城を紹介しました。海外ゲストに要塞の防御機能を体感してもらうため、侍に扮して城攻めを行いました。
千貫櫓(せんがんやぐら)から火縄銃の攻撃を受けたり、枡形口(ますがたぐち)と言うキルゾーンで足止めをくらったりして、城郭(じょうかく)建築がいかに敵の防御を意識して建てられたかということを見てもらえたと思います✨

好きになれなかった大阪城(ごめん🙏)

実は、このツアーをするまで大阪城のことを「本当に魅力的!」とは思っていなかった私です。


なぜなら、大阪城の天守閣(てんしゅかく)は、1930年代に再建された鉄筋コンクリート造。

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城郭(じょうかく)建築好きからすると、天守閣は何と言っても江戸時代以前から残る「現存12天守閣」がサイコー✨で、世界遺産登録の姫路城などがその最たる例です。木造の再建ならまだしも、鉄筋コンクリート造のレプリカは邪道!とする見方があるのです。
コロナ前に実際にゲストを大阪城へお連れしていた際も「この天守閣はまあ、レプリカだからね〜」と、姫路城に比べてややテンションが下がっていた私がいました。

なぜコンクリート天守閣は邪道なの?

古ければ古いほど価値がある。という考え方はいろいろな文化財に言えることだと思います。文化財が経た「時間」そのものが不可逆的な価値なのです。

また、移り変わる時代の中、ずっと取り壊されることなくメンテナンスし続けられたという事実も、多くの人がコストを支払ってでも存続を望むほど普遍的な価値があるという証です。

中には現代では手に入らない素材や工法で作られている文化財もあり、その場合、価値はさらに高まります。

この観点からすると、1930年代に再建された大阪城天守閣は新しく、価値が低いということになります。さらに、当時の工法を再現するならまだしも、鉄筋コンクリート造で中を博物館にしてしまうなんて、ハリボテも同然。大げさに言うとそんな風に思ってしまっていました。

今考えたら作った人や博物館の方々に対して大変失礼なことです。本当にごめんなさい。

大阪城を好きになりたい理由

あまり好きじゃないなら、大阪城を外国人観光客に紹介しなければいいじゃないか、と思いますか?大阪城のある大阪城公園は大阪を代表する観光地。海遊館やUSJ、道頓堀などと肩を並べる大阪の一大観光スポットです。私は歴史建築ツアーをしているので、大阪の歴史的ハイライトとして大阪城を避けて通ることはできません。

じゃあサラッと紹介すれば問題ないんじゃないか、と思いますか?前述の通り、今まではややテンション下がりながらも、「一応避けては通れないから行っとくね」という心持ちでいたのが本当のところです。でもね、情熱を持って対象物を紹介しているかどうかは、ガイディングに影響します。ましてや現存天守閣に引け目を感じた状態では、言葉の選択も知らないうちにネガティブになり、大阪城を心から愛していないことがバレバレになってしまいます。外国人観光客のお客様からしてみれば、そんな中途半端な気持ちでガイドして欲しくないですよね。どうせなら、はるばる訪れた場所が「こんなに素晴らしい場所!私の大好きな場所です!」と紹介してほしいものだと思います。

大阪城の魅力再発見のきっかけ

今回、大阪城の魅力を再発見するに至ったきっかけは、一緒に働く他都市のガイドさんからの「大阪城ってすごいね!」という一言でした。

私は他の2名の通訳ガイドさんとチームを組み、Postcard from Japan(ポストカードフロムジャパン)というバーチャルツアーのプロジェクトを運営していて、毎月違うテーマで日本文化をご紹介しています。

今回、日本の城をテーマにツアー開発をする中で、どのお城をメインに紹介するかを話し合っていました。私は前述の通りでしたので「大阪城はハリボテだからちょっとメインにはならないよね」という態度でいてしまったのですが、大阪城の動画を見せた時、その規模や美しさに「すごい!」と感動してくれました。日本の様々なお城を見た経験のあるプロガイドに大阪城のことを褒められて「え?そうなの?」と目を丸めることになりました。

他にも色々な条件が重なり、今回のバーチャルツアーのメインに大阪城を紹介することが決まりました。

大阪城の魅力を再発見!

「大阪城ってすごいね!」と言われた事をきっかけに、「大阪城はすごい」の視点から改めて大阪城とじっくり向き合う機会を得ました。限られたナレーション時間の中で大阪城のことを伝えるため、情報を整理したり、改めて本を読んで調べたりしました。また、カメラの位置を確認したり、通信環境を確認するために、何度も現場に足を運びました。そしてツアーが終わる頃にはすっかり大阪城のことが大好きになっている自分がいることに気づいたのです。

大阪城に対する現存コンプレックスをなくしていく中には主に3つの過程がありました。

一つ目は、土地ごと愛するイメージを持つ。
二つ目は、現存する遺構(いこう)にスポットライトを当てる。
三つ目は、再建建築自体のすごいところを見つける。

ひとつずつ紹介していきます。

建物ではなく、土地を見る

大阪城が立つ土地は、すごい場所です。信長、秀吉、家康の戦国三強が関わった土地であり、幕末の戦いでもドラマがあった土地なんです。

海外ゲストにツアーをするときは、よほどの日本好きの方でない限り、細かく登場人物の名前や年号を説明したりはしません。でも日本史の中でその場所がどのようなターニングポイントに関わっているかを話します。大阪城が建設された時代は日本にとってどのようなターニングポイントだったでしょうか。

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天皇や貴族が中心だった時代から、武士(英語で説明するときは、samuraiと言っています。)が政治の中心になった後、今度は各地を治める武士同士の間で領土をめぐって長い長い戦いがありました。戦国時代です。

どのくらい長かったと思いますか?この戦いは15世紀中頃に始まりなんと150年間も続きました。下手したらおじいちゃんが生まれてから孫やひ孫の世代までずーっと戦争してるということですね。

数々の戦いが繰り広げられた後、戦国時代一番最後の戦いがあったその場所が、この大阪城なんです。何十人もいた武家の中で、最後のツートップ(徳川vs豊臣)が勝敗を決める重要な戦いでした。そんな戦いがあった場所に自分が立っていると思うと、歴史の物語が急に現実味を持って感じられます。

そして、もうひとつ。
戦いで勝利を収めた徳川家が、約250年後に滅びる時も、この大阪城が戦いの陣地でした。徳川の軍隊は大阪城から戦いに出かけて行き、後に勝者となる敵軍と京都で戦いましたが、負けて大阪城へ帰ってきました。そして負けた徳川のトップは大阪湾から船に乗って江戸へ逃げ帰ってしまったという、なんとも残念な物語で終わります。

この出来事があったのは19世紀の終わり。今から約150年前のことです。150年前と聞いて、どう思いましたか?結構昔だなと思う方もいるでしょうし、意外と最近だな、と思う方もいるかもしれません。例えば奈良の大仏ができたのは1200年以上前のこと。そう考えると、大阪城の土地で起きたドラマがぐっと最近のことに感じませんか。

当時の天守閣が残っていなかったとしても、「この土地で歴史上の物語が展開されたんだなぁ」と思うと物語に臨場感を感じます。そう思うと初めて、「現存天守閣にこだわらなくてもいいんだ」「この場所自体がすごいやん!」と思うことができました。

ということで、一つ目のステップは大阪城の土地が持つ経験値をじっくり味わうことでした。

石垣がすごい!大阪城

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二つ目のステップは、現存の遺構(いこう)に注目することです。お城のメインである天守閣は再建ですので、他に何か当時の面影を残すものがないか考えてみました。

大阪城の天守閣はふたつのお堀に囲まれています。お城の周りをぐるっと石垣が囲んでいるのです。この石垣は、江戸時代から残る当時のままの石垣です!

石垣と聞いて侮りませんでしたか?重機もなく、石の加工技術も乏しい時代、山から切り出した大きな石をこの土地まで運び、積み上げるのは相当な技術が必要でした。一つ一つの石をよく見てみると、加工がイマイチでガタガタになっているものや、真っ直ぐな直線で加工されていて継ぎ目がぴったりのものがあります。当時最先端のエンジニアリングで石を積む技術を洗練させていったのだと思います。

しかもこの石垣、一番高いところで32メートルあり、日本一高い石垣と言われています。

先述の戦いで勝利した徳川家が、戦いで負けた豊臣家の石垣を地中に埋めてその上に新しく自分たち用の石垣を建てたものです。こんなに大きい石垣を作ることができるのは、徳川家に相当な数の人を動かす権力・財力があった証拠なのです。

その権力を示す際たる例が、石垣の重要な玄関口にいくつも置かれている巨石です。一番大きいものは、ひとつで畳36畳分もの大きさになります。

現存天守閣でなくても、この石垣だけでも観に来る価値があるなぁ。と思えてきます。実際、このお城は国の特別史跡に指定されていて、それは石垣やお堀を含む大部分の遺構が残っていることによります。

ということで、二つめのステップは現存する遺構に注目し、主役級のスポットライトを与える、でした。

再建天守閣にもドラマあり

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最後のステップは、再建建築自体のすごいところを見つけることです。これはとても重要なことだと気付きました。

どうしても愛せなかった再建天守閣をもう一度見てみましょう。

大阪城の天守閣は1931年代に再建され、今年2021年で90年目を迎えました。90年の節目を祝うイベントが開催され、イベントに訪れていた小学生の男の子が「90年も前の建物を見られるなんてすごい」と喜んでいる様子をテレビでみました。
確かに、鉄筋コンクリート造とはいえ、90年というのは長い年月ですよね。しかも、日本と鉄筋コンクリート造の歴史は浅く、1900年代に入ってからやっと使われだした工法です。日本に現存する最古の鉄筋コンクリート造の建物は何かというと、なんと、この大阪城天守閣だというのです。

そういえば日本の近代建築にフォーカスを当てるツアーでは、1930年代に建築した建物を数多く紹介してきました。
南海難波駅のある南海ビルディングとか、京都市立美術館など。。。よく考えると鉄筋コンクリート造でも価値ある文化財と言えるかもしれません。

さらに、たとえオリジナルではないにしても、この天守閣、戦前に大阪市民が寄付を募って再建したというところにもドラマがあります。
現代では特に災害の時など、寄付をすることが珍しくなくなっていますが、当時はまだ寄付は一般的ではなかったと思います。半年で150万円が集まったそうですが、当時の大卒初任給が約50円くらいだったことを踏まえると、すごい額が集まりました。

寄付といえば、天守閣が再建される13年前に、大阪中央公会堂が市民の寄付によって建設されています。コンサート会場や講演会会場として使われています。
寄付をした人物は、渡米した際にアメリカの寄付の精神に感銘を受けたことがきっかけで、大阪にも公共施設を寄付によって建設しようと考えたそうです。当時の大阪は重工業の生産量がめちゃくちゃ伸びていたことなどから人口がどんどん増え、東京を上回るほどだったいいます。大阪市営地下鉄ができたのもこの頃です。こんな活気ある時代背景だったからこそ、大阪城天守閣の再建は実現したのかもしれません。大阪の街がどんどん豊かになっていくイメージが大阪市民の中にあって、寄付や慈善事業の精神も加わり、その希望の象徴として大阪城天守閣が誕生できたのかもしれないと思います。

そんな風に再建天守閣を改めて見てみると、鉄筋コンクリートの建物のことを、今まで感じたことがないほど好きになっていました。

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長くなるので割愛しますが、天守閣の中は博物館になっていて、大阪城にまつわる歴史が楽しく学べるようになっています。最上階は展望台で大阪市内を見下ろせます。大阪城公園にはレストランやカフェもたくさんあり、一日中楽しめるエンターテイメントパークです。

良い面にフォーカスし、よく観察すること

こうして大阪城の「天守閣は現存に限る!」という思い込みを外すことができた私は、バーチャル大阪城ツアーに参加された海外ゲストに向けてポジティブに大阪城を案内できました

大阪城の現存コンプレックスを克服できたことは、今後のガイド人生に大きなプラスの影響を与えると思います。

建物の歴史的価値にこだわるがあまり、国宝や重要文化財しか愛せないのはガイドのエゴですよね。海外から日本を楽しみに訪れるゲストは、目の前の建物のことを専門的に知りたいわけではなくて、その日を楽しく過ごし、人生の中の思い出に残る1日にしたいのです。ガイドである私ができることは、対象物を本当に好きになり、情熱を持ってご紹介することだと思います。そうすることで、「そんな素晴らしい場所に来られて良かった」と思ってもらえるからです。
今までの私は「でも、好きになれないものは、なれないんだ!」と諦めていました。でも、訪れる場所のいい面にフォーカスし、よく観察すれば、どんな物事も好きになることができるのではないかな?と今なら思います。


もう一つの現存コンプレックス

ところで、現存天守閣にこだわるがゆえの心理的なブロックに気づいた私は、もう一つ、ずっと持っていた「ある建築」に対するネガティブな感情と向き合うことができました。それはなんだと思いますか?

関西の通訳ガイドならきっと頻繁にガイドする、有名建築です。

ヒントは、

・世界遺産。
・でもメインの建物は1950年に焼失。1955年に再建。


この建物の現存コンプレックスについて、また次回以降、書いてみたいと思います。





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