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仕事よりも、何よりも大切な

今朝、家族であるセキセイインコのテクが亡くなりました。腺胃拡張症という代表的かつ根本的治療法がない病で、長きに渡り対処療法で誤魔化しながらやってきましたが、ついにその日がやってきました。今も泣きながら書いていますが、自分は記憶力が悪く、文章を綴る他により良く弔う術を持ちません。

僕にとって、心の友という言葉の定義に最も近いのは彼でした。僕が辛かろうがなんだろうが、肩やキーボードの上を走りまわり餌に飛びつき、臆病さがあっても奔放さも兼ね備えているような、とても愛らしい個性を持っていました。彼との生活の価値に比べれば、どうプログラミングするかとか、仕事の問題とかは些細なことでした。

彼が亡くなる前から、何度もこの時がきたら自分はどうするのか、どう思うのかを考えていました。集中的な闘病生活を歩んだここ8ヶ月近くは、人生でそれまで流した涙の総量を超えるほど泣き、自分の価値観や振る舞いについて省みていました。

情景

彼との生活で悪い思い出はあるのかと言われると、パッとは思い出せません。常に示唆を与えてくれました。

元気にテクテク歩き回る上に僕がテクノロジーに関わることをやってて、語感もいいしテクちゃんにしよう。そんな命名だった覚えがあります。経緯はともかく、可愛らしい名前です。病院に行った時、診察券に「髙橋テク」と書かれていたのを見て、その時だけはプレゼントをもらったかのような気分になりました。

基本的に放し飼いなので、許す限りは自由に育ちました。水浴びをしたらそのままリラックススペースである僕の肩に飛び乗り、そのまましぶきを飛ばしていました。水がかかるのは困りますが、どこまで行ってもその自由さは愛らしく思えるものでした。伸びた羽根を少し切りそろえて飛び回りすぎるのを抑えた時は、ピクニックにも連れていきました。僕が少し遠くから指を鳴らしたり口笛を吹くと、その合図に応えて、まるで訓練された鷹のように腕に飛び乗ってくるようになりました。

彼は元気な時、朝になるとわざわざ僕のベッドに飛んできて、顔の前でひとしきり鳴き声をあげていました。僕が起きればミッションをクリアしたような様子で飛び戻り、僕が寝たままならそのまま枕の上で一緒に寝ていたり、呆れたように諦めて帰ったりしていました。結果がどうであれ、そんな仕草を見れるなんて、僕はとても贅沢だなと毎朝飽きずに思っていました。

冷たい飲み物が入ったコップの結露や氷を舐めたり、人の食べ物を見るとすぐに突撃してくるのが癖で、いつも攻防戦を繰り広げました。基本的にドジなので、熱いスープに突撃しては逃げ帰ることも多かったです。

エメラルドグリーンの羽根の柔らかなグラデーションは、写真を見た人も僕も、1人も漏らさず綺麗だと言わしめるほどでした。たまにくる換羽期で抜けた羽は、今でも大切にとってあります。

彼は僕にとって初めて最初から最後まで面倒を見た動物でした。その生活は、彼がはっきりと個性を持っている存在だと僕に認識させるに足る価値を持っていました。まるで観賞物や付き従うものであるかのように”ペット”と呼ぶのを憚らせ、あくまで”家族”と呼ぶことに拘らせるほどでした。

闘病生活

羽を膨らませたりぐったりしている様子を見せる彼を病院に連れて行き、治らない病気だとわかったとき、どうあがいても逃れられない問題への大きな絶望感を覚えました。もっと早く連れて行けば、もっとより良い食事や健康管理をしていればと悔やんだことは数えきれません。

病院に駆け込んだり入院するとき、道中人目を憚りつつも堪えきれず何度も泣きました。診察時間までまだ遠く、家で待っているときにはぐったりしている彼に寄り添って、解決できない歯痒さと申し訳なさ、いつ亡くなってしまうのかという不安からずっと泣いていました。

ケージを抱えている腕を一本失う代わりに彼が治るなら、迷わず切り飛ばしたいと本気で思いました。彼がたまに元気な姿を見せた時、基本的に同じことの繰り返しが嫌いな性格の僕でも、「この時間がずっと続けば他に何もいらない」と思えました。

小鳥の専門病院へ週に2度3度行くこともざらで、病院の先生とはすっかり顔見知りになりました。「こんなに診療時に手で掴まれる際の回避能力が高い、頭のいい子は初めて見た」「体重が少し軽いとか、セキセイだと思えないくらい力持ちで驚かさせる」という話を聞き、客観的に見ても特別なのだと誇らしく思えました。

病院の先生は彼のことを「人」という単位で呼んでくれました。書いた通り、家族として捉えている自分にとって、些細な呼び方でもこれほどありがたいことはありませんでした。

よく動物が闘病していると、「頑張っていてえらい」と褒める人が多いですが、僕は彼に頑張ってほしいわけではありませんでした。感情豊かで自由に飛び回るよう、何にも囚われて欲しくなかったのに、わざわざ頑張らせているのかと思うと負い目を感じました。それでも、他の鳥の子達に比べ自ら進んで栄養剤などを飲み、元気であろうと努める彼を見ていると、自分も努力し一緒にいられる時間を大事にしなければと、身が引き締まりました。

鳥から学んだこと

彼がいなくなる日を考える度、自分は彼から何を学んだのか、ひたすらに意識しなければならないと感じました。

宗教の必要性について考えました。育ちの都合上、宗教というものに強い忌避感を覚えていましたが、認識が変わりました。どうロジックを詰めても回避できない、けどどうしても理由づけが欲しい問題に向き合った時、誰でも宗教をはじめとした、寄りかかる杖が必要になるのだと実感しました。

計測することの大切さについて考えました。自宅での療養時には、餌や気温、湿度に前後の体調、体重など全てを記録していました。投薬のタイミングや食事の組み合わせなどについて、その傾向をシェアした上で常に病院の先生に相談に乗っていただきました。

なぜ自分はこんなに泣いているのかを考えました。単純に悲しいから泣いていたのではありません。放し飼いとはいえ自由を制限し、あまつさえ病気に至らしめた自分に対して、彼が与えた日常の幸福感の大きさたるや。そのことに負い目を感じ耐えきれず泣いているのだと、自覚しました。

金銭によって測れない価値があることについて考えました。彼を迎えるのに必要だったのは、たった数千円でした。彼をまた迎えられるなら、数千万円払うことになっても構わないと何度も思いました。

リスクを取ることの大切さを学びました。休診日にもかかわらず餌が喉を通らず、元気がない彼に対してできることを考え、自分で最大限安全に給餌する方法を調べ実行しました。ミスすれば即死なため手も震えましたが、なんとか命を繋いだことが2度3度ありました。この経験は「得たいものを得るには、必ずどこかでリスクを取らなければならない」と、僕に身を以て理解させました。

最期に

彼は最期まで優しい子でした。

朝起きた時、それまでと明らかにことなるおぼつかない足取りで、ゆっくりとカゴから出てきました。餌も進んで食べず、あまりにおぼつかないせいで机からポテっと落ちてしまったので、慌ててすくい上げました。

しばらくじっとしている様子を見た方がいいかと思い、自分がベッドの方に行くと、彼はいつもよりも軽い羽音を立てながらベッドに降り立ち、足が動かないのかヨタヨタと歩いて僕の方に寄ってきました。

僕は「ああ、本当にもうダメなんだ」と理解すると共に、「最期の瞬間まで寄り添えるよう朝まで耐え、力を振り絞って飛んできてもくれるなんて」と、彼を泣きながら抱き、撫でました。

2時間近く一緒に寄り添い、時折意識が途切れまいと首を振る彼に、「テクちゃんありがとう、大好きだよ」と語りかけ、撫でたり彼が好きだった口笛を聴かせたり、よく彼の鼻先と唇を付き合わせるときの合図である、「プププ」という小さな音を鳴らしながら、顔を鼻先に近づけたりして、次第に立ったり瞬きができなくなっていく様子を見ながら、自分がここにいるとわかるよう、彼に声をかけつづけました。

最期は鼓動が次第にゆっくりになっていき、意識が途切れる直前まで語りかけたあと、目の前で事切れる様子を看取りました。「最期の最期、自分は彼と一緒にいられるのか」。それが最も恐ろしい疑問でしたが、そんなものをかき消すように彼は自ら寄り添う機会を与えてくれ、最期まで僕はもらってばかりの立場になってしまいました。

彼が亡くなった今改めて思うのは、最期の最期まで彼が僕に与えてくれた幸福感の分、自分はどれだけより良く生きれるのかどうかということです。彼の最期の振る舞いが、結末に関して僕が抱えていた全ての恐ろしい不安を消し去り、初めから最期までを幸せな想い出で満たしてくれました。

もちろん喪失感は大きいですが、悲しいことばかりではありません。僕の好きな動物行動学者のコンラート・ローレンツは著書の中で、愛犬の子孫をみるにつけ、その愛犬のことを思い出すだけではなく、その種全てを思わせる犬の様子を「愛と忠節のはかり知れぬ総和」と表現しました。僕は今、水浴びや餌に夢中な、鳩やカラス、かもめなどをみるたびに、テクのことを思い出します。

彼が息をし共に歩み、与えてくれる多大な幸福感に満ちた日常を毎日思い返しながら、想えばこそ前を向いて新たなことに取り組んで行こうと思います。



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