令和版「学問のすすめ」
『坂の上の雲』にて秋山兄弟の弟、真之がそれまで通っていた大学予備校をやめて海軍学校に行こうと心を決めるシーンがある。兄、好古に真之が学問を成し、学士となっていく自分の進むべきルートに疑問を持っていると相談する。そこで真之は次のようなことを言う「学問はどんなに嫌いなものでも耐えてやり続けなければならない。自分にはどうにもそれができない……」(そのままの表現ではないですおぼろげな記憶で書いているのでより詳しく知りたい方は『坂の上の雲』を読んでください)明治の日露戦争前の近代化が急激に進む社会に生きた10代の若者の言葉である。その時の「学問」から、現代の「学問」というものは全く進歩が見られない。
ここから一方的な学問への怒りを書きます。正しくないことも書きます。なに言ってんだこいつは。何もやってないであろう奴がなにを調子乗ったことを言っているんだ。と思うかもしれません。正しくないことも書きます。ご了承ください
嫌いでも耐えなければいけないという忌まわしき「学問」というものを今も学びの最高学府の大学でもやってしまっている。6歳で小学校に入学して22で大学を卒業するまでの16年間。このあほらしい学校制度の下で「学問」をさせられなければならない。
確かに「学問」とは耐えなければならないものである。それは当然だ。一つの事象は絶対そのもの単体で存在しているわけではない。深く関係するものから、一見まったく関係のなさそうなものまでたくさんのものが複雑に絡み合ったもの。だから、その絡まりをほどくために興味のないものまで耐えて学ばなければならない。それはわかっている。
ただ、学びとは一体何かと言うことを考えたときにこの「学問」つまり学校教育は学びの1ピースでしかないことが分かる。「学問」は近代化された学びである。そもそも、古代の学びは、すべての人間に備わっている知的好奇心を満たす行為であった。例えば、この世の始まりはどんなものであるのか。この世界はなにで構成されているのか。私たち人間はいったいどんな存在で、どうしてここにいるのか。そのような知的好奇心という言葉でまとめるいわば、説明がすぐには付けられないものからの空恐ろしさの思いを打ち消すためのものである。では、本来の学びというものが何か把握したところで、今の「学問」とは何なのか。今の学問は資本主義社会によって作り上げられた近代の学問である。知的好奇心をないがしろにした、いかに多くの人間に知識を持たせ、実用化できるかといったものである。つまり、”使える”人間を作り出すことが目的である。知的好奇心をないがしろにするとは、実におかしなことである。実際、世界をここまで大きくした科学のほぼすべてが知的好奇心によって突き動かされた元来の学びの続きである研究といった行為でなされたものにも関わらず。実用的かどうかが重要視されている。資本主義の進歩と分業で研究が科学者という肩書きで区別された異なる人間たちのものであるとされてしまったことも原因である。
この教養とも言い換えられる「学問」がいかに重要ではないかを皮肉にも資本主義を進化させた人間が表現している。その人物は、鉄鋼王として知られるアンドリュー・カーネギーである。彼は、教養と言われる「学問」を成していなかったのにもかかわらず。素晴らしい成果を収めた。ナポレオン・ヒル博士の「思考は現実化する」という有名な本がある。この本はたくさんの成功者から成功の秘訣を20年以上にわたって調査してできた歴史的名著で、これによってたくさんの成功者を生み出している。この成功の秘訣を世に伝えるというプログラムをナポレオンヒルに命じたのがアンドリューカーネギーだ。少し話はそれたが、資本主義が作った「学問」を、資本主義を進化させた人物が成していなかったという事実があることが言いたい。
教養の学問はすでに中学校教育で終わっている。中学校教育で十分なのだ。しかし高校、大学と無駄に同じことを続けているのはよくわからない。中学を卒業したころ脳はかなり進化しており、様々なものを自ら学び取ることができる完璧な素晴らしい状態。せっかく視野が広くなって乾いたスポンジのように何でも吸収できるのに、吸収するものを制限してしまっている。高校なんか行くよりは、働きながら自らの好きな学びをするのが一番正しい道だ。
低学歴を下とする偏見がある。これが一番の問題である。限られたものしか測れないテストで結果が出なかったからと言って、人生うまくいかないなんてそんなバカげたことはない。にもかかわらず、低学歴というものへの偏見が多くの人間の障害になっている。低学歴だったがその後成功した人物の功績を奇跡としてシンデレラストーリーとして掲げるものが多いが決してそんな大層なものではない。ただの人間が成功しただけだ。ただ、その人たちはその偏見に反抗して、もしくは気にせず、ただ努力を高学歴がするように同じようにしただけである。学歴というくだらないものが消えれば必ず、今まで低学歴と呼ばれた人のうち成功者の人数が一気に増えるであろう。
明治時代から、この無理やり持ち込んだ学校教育というものの問題点はあった。明治時代はそれでよかったのかもしれないが、現代にいたっては社会問題の原因にまでなっている。例の自民党の国会議員が「国民のモラルが低下している」という言葉があったらしいが、これは学校という教育システムを変化させることのない国の責任である。モラルがないのは政治家のほうだと怒る人間がちらほらいたが怒るべきはそこではない。(追記:実際モラルがない政治家はたくさんいるし、モラルがない問題がたくさん起きている。以上の記載は教育問題の改革をしない政府へ批判すべきだという話の例え)モラルがない人間を作り出してしまっている学校教育を全くと言って変化させない国の責任であり、全く持って起こるべくして起きたことである。
抑圧する「学問」がどれだけの損失を出しているのか一度すべての国民が考えてみるべきである。「真の学問」はあなただけが成せるものであなただけで作り上げるものだ。あなたの内部に知的好奇心という猛獣がまだ眠ったままだ。それは三大欲求に匹敵するかそれ以上の力である。スマホという知的好奇心によって作り出されたものをとりあえず机において、あなたの鎖で縛られた好奇心を解放してあげることがいまあなたにできる最高の行動である。
この文章を読んで少しでも学校教育について、学ぶことについて今一度考えてもらえれば幸いです。