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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(67)

〈前回のあらすじ〉
 諒は膝を抱えて蹲る柳瀬結子のそばに、膝をつき、直が柳瀬結子を突き放したわけではないことを語った。そして、つまずいても転んでも純真を守って生きていってほしいと、願った。すると、諒を媒体にした直が、愛しい恋人を一人にしてしまったことを心から謝った。

67・非常事態

 T大のそばまで行くと、そこに隣接する旅館の玄関前で黒尾のワンボックスカーが待機していた。

 T大を訪れ、風間教授に接見するまで海洋科学館へ足を運んだときにこの旅館の前を素通りしていたことを思い出し、僕はこんな目と鼻の先に黒尾とかおりがいたのだと、改めて驚いた。

「お前の宿はどこだ?荷物を取りに行くぞ」

 僕がワンボックスカーに乗り込むと、黒尾が後部座席を振り返り、そう言った。

「いえ……、このまま、出かけてください。財布とスマホは持ってますし」
「いいのか?」
「えぇ、福島むこうがどうなっているのかわからないのだから、一刻も早く戻ったほうがいいでしょう」

 自分でも感心するほど冷静に、僕は黒尾に告げた。黒尾は僕の言葉から僕の心境の変化を感じ取ったようで、しばし黙り、何かを会得したように頷いてから、前方に向き治った。

「よし。じゃあ、行くぞ」

 ワンボックスカーが走り出すと、松林の遊歩道の向こうから、旅館の女将に支えられながら歩いてくる柳瀬結子の姿が見えた。女将が黒尾の車に気付いて、俯いていた柳瀬結子の肩を叩いた。

 柳瀬結子はかつて自分を水族館まで運んでくれた白いワンボックスカーを見て、少し嬉しそうな顔をした。もしかしたら、僕とともに福島に帰る直の魂が見えたのかもしれない。

 福島から清水に来るまでの行程は、悠長に食事をしたり、風呂に入ったりしながら、黒尾とかおり、そして僕はそれぞれに二日をかけたが、清水から慌ただしく飛び出し福島まで戻る行程は、ろくに休みも取らなかった。その道のりは一筋縄ではいかなく、ひどく難儀したからだ。

 まず、地震の影響により、高速道路で都内に入ることができなかった。東京以北の交通網が寸断されたと思われ、あらゆる交通と物流が停滞していた。それに加えて、被災地に向かう自衛隊や緊急車両、災害ボランティアや救援物資の運搬車などを優先したため、一般道でも車の乗り入れを制限されていた。

 黒尾のワンボックスカーに取り付けられたテレビやラジオで情報を収集しようにも、三陸海岸を襲った津波の情報が刻一刻と変わり(大方悪い方へ)、福島に関する信頼できる情報を得ることができなかった。

 ほどなくして、黒尾はカーステレオとナビゲーションシステムの電源をオフにした。

「非常日帯だ」

 いつも軽口を叩いてばかりの黒尾が、いつになく辛辣な面持ちでそう言ったので、僕もかおりも神妙な面持ちになった。

 僕が加奈子のいる民宿へ荷物を取りに戻らなかったのは、もちろん一刻も早く帰路につくためでもあったが、この地震で加奈子も加奈子の母親も動揺し、泊まり客ではあるが僕は数少ない男手として頼られてしまうのだろうと予測したからだ。頼られてしまえば、僕はこの地を離れ難くなってしまう。

 加えて、加奈子は図らずも直の魂を探す僕の旅に感化され、心の底に眠らせていた父親への愛慕を蘇らせてしまった。その孵化して間もないひなのような危なげな思いを置き去りにして、僕は福島に戻ることができなかったんじゃないかと思ったのだ。

 置き去りにした荷物の中になくして困るようなものは何一つとしてなかったから、そのまま処分してもらっても構わなかった。宿泊代は前払いしてあるし、連絡先も宿帳に記載しておいた。地震の混乱が落ち着いた頃に女主人から何かしらの連絡が来るだろうとは思ったが、民宿に戻らず福島に帰ることだけは伝えておこうと民宿に電話をかけてみた。しかし、一向に繋がらなかった。この地震で、家族や友人の安否確認をする人が一斉に携帯電話やスマートフォンを利用してので、回線がパンクしたのだろう。

 東名高速道路を進んでいくと、電光掲示板の交通情報で都内の渋滞が神奈川県にまで及んでいることを報せていた。黒尾は早々に神奈川県に入る前の御殿場インターチェンジで一般道に下りて、東の神奈川県ではなく、北の山梨県へ向かった。恐らく黒尾がカーラジオやナビゲーションシステムを消したのは、混沌とした情報の波で彼の中の野生本能が鈍らせないためだったのだろう。その代わり、黒尾はETCのカードスロットの隣にある、小さな機械の電源を入れた。

 無事に山梨県に入ることはできたが、やはりそこから東へ進もうとするとすると、少しずつ車両規制が厳しくなってきた。

 黒尾のワンボックスカーが福島ナンバーだったことからいくつかの検問所を優先的に通過させてもらったが、そのうち渋滞が膠着してしまうと、福島ナンバーであろうとなかろうと身動きが取れなくなってしまった。そのたびに黒尾は新たな抜け道を探して、一進一退で北東へ向かった。その間、ドライバーシートの足元から、何やらトランシーバーの通話のようなノイズ混じりの音声が鳴り続けていた。

 幸いだったのは、黒尾のワンボックスカーにいくらかの『金環水』が積んであったことだった。

「この水を待っている人がいる。オレがここで足止めを食らったら、助かる人も助からないぞ!」

 福島ナンバーでも緊急性がない車両が検問で止められ始めた中、黒尾は切羽詰まった形相で(もちろん彼の家芸でもある演技なのだが)検問所の自衛官に訴え、着々と福島に向けて前進していった。

「それって、ラジオですか?」

 黒尾の足元から聞こえる声に耳を澄ませると、ラジオDJにしては乱暴な口調だし、音楽も一向にかからなかったので、それ以外の何かだろうということだけはなんとなくわかった。その声の主は大方男性で、「通行止め」とか「迂回」などの単語が飛び交っていた。

「無線だよ」
「ムセン?」

 僕の頭の中にはまず「有線」に対しての「無線」が浮かび、その次にタダで飲み食いする「無銭飲食」を彷彿させた。そのどちらがこの状況に合致しているかと考えれば、必然と前者になる。

「現代ではインターネットがあらゆるところに通信網を張っているけれど、サイバーテロやハッキングがいつになってもなくならないように、完全に安全でもないし、頑丈でもない。実際、こうして災害が起きれば、通信網は混乱する。加えて、ネガティブな情報やフェイクニュースが混在して、その混乱を増長させる。だから、万が一のためにこの車には無線を装備してある。この電波は携帯電話やWi−Fiに干渉されない上に、リアルな情報が瞬時に得られる。だから、もちろんこれがあることでオレの仕事にも大いに役立ってる。もしかしたら、何世紀かあとにインターネットなんてものが何かほかの通信手段に淘汰されたとしても、無線はいつまでもなくならないんじゃないかな」

 往路では宿泊するシディホテルをナビゲーションシステムで検索したり、そのホテルを予約するためにハンズフリー通話をしてみせた黒尾が、高度な技術だけでなく、状況に応じて古い技術や知識を駆使する周到さに、僕は改めて感服した。

「原発は、大丈夫かしら?」

 かおりが助手席で体をひねり、僕に向かってそう言った。

 僕の家族が原発で働いていたから、そう気にかけてくれたのかもしれないが、憔悴した柳瀬結子が走りゆく黒尾の車に直の魂を見つけたように、かおりも僕に憑依した直の魂を見て、僕にではなく直に語りかけていたのかもしれない。

「それなりの安全対策はとってあるだろうけど、何しろ沿岸に建っているものだから、地震だけでなくて、津波も心配だよね」
「もし、原発が壊れたりしたら、どうなるの?当然、放射線が漏れるんでしょ?」

 かおりにそう問われ、僕は原発で働き始めた直から聞いた茨城県での臨界事故の事を思い出した。

 そこでは、地震や津波などによる天災ではなく、作業員による手抜かりで被曝が起きていた。

 その時の僕には直が語る専門的な言葉が理解できなかったが、被爆した作業員が壮絶な死を遂げたことだけは克明に覚えていた。だが、かおりの不安を煽ってもいけないので、そのことは口にしなかった。

「今のところ、運ちゃんたちにも、原発の情報は入っていないみたいだぞ」

 無線の通信に耳を傾けていた黒尾が、言った。

 僕は心の中で原発の安否について直に問い質してみたが、彼からの返答はなかった。直にも原発の被害について予測ができなかったのだろう。あるいは、最悪の事態を想定したときの悲惨さを口にすることを恐れていたのかもしれない。

「しかし、こんなときに限って新政府に災害対策の指揮を取らせるなんて、神様も意地が悪い」

 苦心して描いた絵に泥をかけられたように、黒尾が心底悔しそうにそう言った。

 往路で黒尾とかおりと居酒屋で食事をしたときには、黒尾が投げかける質問をようやく自分なりに咀嚼して、二重丸をもらえた。だが、今は違った。黒尾が何を言わんとしているのか、僕はその一言で読み取ることができたのだ。

「三ツ星レストランのシェフたちが、需要な常連客のもてなしの前にストを起こして、急遽、星などとは縁のないシェフたちを雇ったようなものですね」

 僕の思いがけない返答に、刹那黒尾は困惑していたようだが、少し嬉しそうに僕の仮想を補足した。

「あぁ、もちろんウェイターやソムリエたちもだ」
「そのレストランが信用を失うのは、時間の問題ですね」
「その時はもうどうにも収拾がつかない。いや、収拾どころか火に油を注ぐようなことだってありえる」

 きっと高校時代の直は、容姿や家庭環境が違う黒尾の中に以心伝心で繋がるものを本能的に見つけていたのかもしれない。そして、自分を映す鏡のような黒尾の中にも純真があると確信し、それを守るために彼を更生させようと奔走したのではなかろうか。

 当時の二人もきっとこのようなセッションを楽しんでいたに違いない。僕はその時の二人の様子を想像し、とても清々しい気持ちになった。

 助手席のかおりは、戸惑ったり狼狽えてばかりだった二日前の僕とは違い、堂々と黒尾と討論している今の僕を見て、目を丸くしていた。

 父親と直を失い、進路に希望を持つこともできず、母親とともに世間と隔絶した暮らしをしていたかつての僕は、自分が置かれている状況をすべて他人のせいにしていた。もちろん父親のことも直のことも、軽蔑し、心の中で非難していた。

 でもそれは、僕が親戚や近所の冷たい視線から逃れるための言い訳に過ぎず、本当は父親や直を死の誘惑に引き込んだ世の中に飛び出していくことを恐れていたに過ぎなかった。

 糸の切れた凧のような僕を見つけた柳瀬結子がその切れ端を掴み、かおりや竹さんや黒尾がそれを手繰ってくれた。やがてその糸は直の魂に結びつき、僕はまた優雅に風を受けて天高く舞うことができた。

 もう僕は僕に降りかかるあらゆる災厄を人のせいにしない。自分のことを自分で守り、そして自分の大切なものを誰にも傷つけさせない。直の魂を福島に連れ帰る代わりに、かつての腰抜けだった僕は三保の冷たい海に置いてきた。

 進路が次々と手詰まりになるたびに、黒尾は救援物資を運ぶトラックの無線に従い(時折、自衛隊の無線通話も混線した)、なんとか群馬県までたどり着いたが、さすがの黒尾もそこで体力が尽きた。

 僕らはたくさんの車や人がひしめく道の駅に車を止めて、車の中で眠った。ガソリンを節約するためにエンジンを止めていたので車内はとても寒かったが、僕とかおは広いキャプテンシートで抱き合って眠ったので凍えることはなかった。黒尾も旅館の綿入り半纏の中に丸まって、その上から三保の砂がついたままのラグマットをかけて寒さを凌いでいた。

 道の駅はトラックのエンジン音や人の声が夜通し響いていたが、僕らは過酷な移動で蓄積した披露から、あっけなく深い眠りに落ちた。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(68)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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