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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(43)

〈前回のあらすじ〉
 直の友人である黒尾と旅立った朝、水族館の近くの路上で思いがけない人が待っていた。それは他でもないかおりで、約束したわけでもないのに彼女は静岡県への旅に便乗してきた。しかし、かおりは左のまぶたを酷く腫らせていて、聞けば唯一の家族である父親に殴られたという。ただ、それよりもかおりは竹さんが直のことで取り乱したのが気にかかっていたという。

43・ただし……、しんだ……

 飼育棟に向かう廊下を抜けて、マナティーの水槽の前に出ると、僕とかおりはそこに竹さんの姿を見つけた。

 竹さんはいつもと変わらない仕事を、いつもと変わらないように的確にこなし、時折水槽の上から水の中に手を差し込んで、ピッピやベーブとの会話を楽しんでいた。

「ねぇ、竹さん」

 水槽に駆け寄ったかおりが、その上にいる竹さんを見上げながら声をかけた。

「ピッピのことなんだけど」

 ピッピという名を聞いて、竹さんは作業をする手を止めた。そして、ゆっくりと水槽の縁へ歩き、柵越しにその下にいるかおりと僕を見下ろした。

「ピッピ?」
「うん」

 竹さんは柵の前でしゃがみ、折り曲げた膝の上で頬杖をつくような姿勢になった。竹さんが人の話に集中するときの独特な姿勢だ。僕はかおりのあとを追いかけてきたものの、かおりがどのように五年前の記憶を竹さんから引き出そうとしているのかわからず、不安でいた。

「ピッピの名前を決めたときのこと、覚えてる?」
「ピッピは、ずっとピッピだよ」

 竹さんは、鉛筆やトマトが昔からそう呼ばれていたのと同じように、ピッピも昔からピッピだと主張した。

「そう、ずっとピッピなんだけど、この水族館に来たときにはまだ名前がなくて、いろんな人がピッピの名前を考えてくれたの」

 かおりは竹さんにわかりやすいように、事情の説明を噛み砕いてはいたが、竹さんの五年前の記憶を引き出そうと焦るあまり、心なしか早口になっていた。そのせいか、竹さんにはかおりの意図がうまく伝わっていないようだった。

 いつの間にか水槽のアクリル板の前にいる僕らの方へ、ピッピとベーブがゆらゆらと近づいてきた。その様子は、意思の疎通が取れていない竹さんとかおりの間に入り、通訳を買って出ようとしてくれているようにもみえた。

「タダシという名前に覚えないかな?ヘンミタダシ」

 僕がそう言うと、竹さんが頬杖に載せていた顎をピクリと上げて、視線を左右に泳がせた。

「ただし、知ってるよ」

「思いがけず、竹さんは僕の問いに即答した」

 だが、竹さんが僕の兄の直ではなく、別の「ただし」という人、あるいは「ただし」と呼ばれる何かと勘違いしている可能性も考えられたので、僕は改めて問いを重ねた。

「五年前に、そのただしという人が、ピッピの名前をつけたんだ。背の高い痩せた男でね。その当時は二十二歳だったんだよ」
「そうだよ、知ってるよ。ただし」

 竹さんが躊躇いなく返答すると、僕とかおりは顔を見合わせた。それに呼応するように、水槽の中のピッピとベーブもゆっくりと向き合った。

「ただしは、ここに来ていたよ」
「えっ!?」

 僕は竹さんの言葉に耳を疑った。

「ピッピが来る前から、ずっと、一緒だったよ」「来る前?」

 竹さんの言葉を聞いて、直が大学合格を決めた後、父親の機嫌を気にしながらアルバイトに出かけていたことを、僕は思い出した。

(そうか、直はあの頃から水族館に通い、竹さんと交流をもっていたのか)

 僕は幼い頃に地中に埋めて、そのままずっと忘れてしまっていた玩具を不意に掘り起こしてしまったような驚きを感じるのと同時に、大切にしていたはずの玩具をこうも簡単に記憶の隅に追いやってしまった後ろめたさに、苛まれた。

 大学に進学する前に地元の水族館に大きなオスのマナティーがいることを知り(あるいは子供の頃の記憶を思い出し)、直は高校の終わりからアルバイトを兼ねてマナティーに触れに来ていたのだそうだ。直が何故それほどまでにマナティーに執着したのかは、図り知ることができなかったが、その熱意を竹さんは本能的に理解していたらしい。

 それから直は大学に行ってからも定期的に福島に戻り、飼育棟を訪れていたようだ。故郷に帰ってきたのに実家に寄ることもなく、水族館に入り浸っては、また駿河湾の港町に戻っていった。父親の反対を押し切って海洋生物学を専攻したのも、もしかしたら、直がマナティーに没頭したことと関係していたのかもしれない。

「ピッピはね、ただしが友達だって知ってたよ」

 竹さんは嬉しそうにそう言った。

 僕は水槽の中のピッピを見つめた。つぶらな瞳でピッピも僕らを見ていたが、そこに僕らがどのように映っていたかはわからない。でも、ピッピのことを大好きだと思う竹さんが、竹さんと同じくらいピッピのことを大好きだと思っていた痩せた男の話をしているということは、どことなく理解しているようにも感じられた。

「竹さん」

 僕がそう切り出すと、竹さんは天井を見つめていた視線を、ゆっくりと僕に向けた。

「直はね、僕の兄さんなんだ」
「兄さん?」

 竹さんは僕の言葉に戸惑っていた。友達という言葉の意味は知っていても、どうやら、竹さんは兄という言葉の概念を知らないか、あるいは知っていたけれど自分の兄とも疎遠になってしまったことから、いつの間にか有耶無耶にしてしまったみたいだった。僕は言葉を変えて、もう一度言った。

「直はね、僕にとっても、大切な『友達』だったんだよ」

 そう言い換えると、竹さんは表情を明るくした。

 大好きなピッピと自分と同じくらいピッピが好きだった「ただし」という男。その男と僕やかおりが繫がって一つの輪になったことが、竹さんの喜びになったようだ。

「そうか」

 そう言って竹さんは立ち上がり、水槽の脇に備えられた梯子を急いで降りて来た。それまで見上げていた竹さんが僕らと同じ場所に立つと、改めてその体躯の小ささが際立った。

「元気か?ただし」

 水槽の中の海獣と同じ無垢な瞳を僕に向けて、竹さんはそう尋ねた。

 僕は、言葉に詰まった。その狼狽を察し、かおりもおろおろとしていた。

「ずいぶんと、ここには来ていない。元気か?ただし」
「直は……」僕は、竹さんの瞳を直視できなかった。「もうここには来ません」
「どうして?」

 竹さんの瞳に吸い込まれそうになりながら、僕は喉の奥に詰まった空気の塊を吐き出すように言った。

「死にました」
「シニマシタ?」

 竹さんは、僕が吐き出した言葉を丁寧に拾い、五つの無機質な音に変えた。

 ピッピや竹さんが友達だと思っていた直が、もうこの世にはいないことを伝えれば、きっと竹さんは悲しむだろうと想像していたが、思いがけず、竹さんは事情をすぐに理解できなかった。

 不意にかおりが僕のシャツの袖を引いた。

「竹さんは、自分の両親がこの世からいなくなったことでさえ、うまく解釈できてないの。水族館では寿命の長い海獣やペンギンたちにはそれぞれの飼育員たちに思い入れもあるから、別れが辛いこともあるけれど、それでも葬儀や火葬をするわけではないから、人の死とはやはり別物なんだよね。だから、『死んだ』と言われても、私たちのように、胸の奥のほうがぎゅうっと何かに掴まれるような苦しみを、竹さんは知らないの」

 かおりは悲しいほどに深い皺を眉間に寄せて、僕に囁いた。

 親と死に別れ、残された兄弟から疎外されて敬光学園に押し込まれたことを伏せるために、施設の職員がそれらに関わる言葉を禁句としたことから、竹さんの頭の中にある辞書の所々は、黒く塗りつぶされていた。

 僕は直がもうこの世にいないことをどのように伝えたらいいのか、考えあぐねていた。直の話を切り出してしまった以上、もう竹さんに何らかの説明をしなければいけなかったし、かといって、もう一度直に会えるような期待を持たせるのも憚られた。

 直は遠い場所に行ってしまったのだと言えば、竹さんは、それは何処だと問い返すだろう。直がピッピや竹さんのことを忘れてしまったのだと偽っても、決して信じなかっただろう。僕は僕の身の回りに蔓延した死の誘惑について、きちんと竹さんに理解してもらう必要があるのではないかと考え始めていた。

 おそらくそんなことを言い出せば、すぐさま竹さんの親代わりのようなかおりが反対したに違いない。ただ、このまま直の不在を曖昧にしておくことは、僕にはできなかった。

 僕の傍らで、かおりが戸惑っていた。僕が苦悩する姿を見て、安易にピッピのことを竹さんに尋ねようと言い出した自分を恨んでいるようだった。

 僕はそんなかおりに安心するように目配せをして、言葉を切り出した。

「竹さん」
「ん?」

 竹さんの黒くて深い瞳が、僕を見つめ返した。

「岬の突端に、いくつか石を積んだものがあるだろ?」

 僕は水族館のカフェテラスから望むことができる動物たちの供養塔のことを語り始めた。

「あれは、『墓』っていうんだ」
「ハカ?」

 やはり竹さんの辞書にあるはずの墓の項目は、黒く塗りつぶされていた。

「魚や動物たちが動けなくなって、息もしなくなって、もう瞼も開かなくなってしまうことがあるだろ?」

 そう言うと、竹さんはすぐさま切ない様相に変わった。

「そうした魚や動物たちは、あの場所で供養されるんだ」
「クヨウ?」

「供養」という言葉も、竹さんの辞書にはなかった。しかし、竹さんは思いがけず、魚や動物たちの末路を知っていた。

「動かなくなったら、焼かれるんだよね」

 水族館で死んだ魚や動物たちは、専門の業者に引き取られていく。法律の上では、魚や動物たちは「廃棄物」にあたるので、燃えるゴミと同じような扱いをされる。命あったものを「ゴミ」として扱うことにどうしても違和感を感じてしまうが、一匹ずつ魚や動物の葬儀や火葬を行い、墓を立ててもいられない事情も受け止めなければならなかった。竹さんにはそうした法規や制度を正しく理解でないにしても、また、死や墓や供養という言葉を頭の中の辞書に持たなくても、動かなくなった魚や動物はやがて焼かれるということは、知っていた。

「そう、焼かれて、灰になる」

 そう言って、僕は父親の亡骸が灰と煙になり、火葬場の高性能な排煙装置から昇天していく様子を思い返していた。僕の隣には、まだ大学生だった直が立っていた。直は火葬場の上空を見上げて、父親の魂を探していた。ただ、直にも僕にもそれを見つけることはできず、後味の悪い虚無感だけしか感じることができなかった。

「灰になったら、岬の先で供養される。そして、もう彼らには会うことはできないんだ」
「ただしも、焼かれたのか?灰になったのか?」
「そう、直も息をしなくなって、瞳も開かなくなって、やがて、焼かれて、灰になった。そして、岬ではない別の場所にある石の下で眠っている」
「もう、会えないのか?」
 僕は、僕をじっと見上げている竹さんを見つめ返し、一つ深い呼吸をしてから、「会えない」と言った。
「人も焼かれて、灰になり、もう二度と会えなくなる。それが、『死ぬ』ということなんだ」
「シ……、ヌ……」

 二つの乾いた音を漏らしてから、竹さんは押し黙り、項垂れた。

 僕は竹さんの背後にいたかおりを見た。かおりは静かに涙を流していた。竹さんが好きだった数少ない人がもうこの世にいないのだと彼に知らせることが、これほど辛いとは思わなかったのだろう。僕もピッピの名付け親が自分の兄だと知ってから、僕の身の回りに張り巡らされていた一見なんの関係性もなかったように見えた何本もの糸が、僕自身が柳瀬結子のことでもがいたり、高木とかおりとのことで足掻いたりしたことによって、次々と絡み始めたように感じていた。

 図らずも、僕とかおりの手により、竹さんに直の不在と「死」というものが持つ喪失感を伝えることになってしまった。しかし、僕はそうした知らせを、僕らの手によって下せて良かったと思っていた。仮にこれが敬光学園の白石さんによってなされたなら、竹さんはまた違う混乱をしたに違いない。

 僕もかおりも竹さんも、種類や大きさは違えど似たような足枷を嵌められたまま、果てしない地平線しか見えない砂漠に放り出された漂流者だったのだと思う。もしも誰かが欠けてしまったら、残された者たちは狼狽え、生きる気力を削がれただろう。我々は三人で一つの共同体だった。だから、今このときの竹さんの悲しみも、僕とかおりが受け止めてあげなければならなかった。

 やがて、竹さんの小さな身体が、震え始めた。

「ただし……、シヌ……。ただし……、シヌ……」
「竹さん……」

 竹さんは小さな両の拳を強く握り、震わせた。そして、「ただし……、しんだ……」と唸るように呟きながら、濡れたコンクリートの上で、地団駄を踏んだ。

 その竹さんをかおりが背後から抱き締めた。それでも、竹さんは地団駄をやめなかった。竹さんが履いた白い長靴が、コンクリートの床に薄く広がった水の膜をパシャパシャと叩いた。僕はただ、それを黙って見守ることしかできなかった。

 果たして直は水族館で何をしていたのだろう。マナティーや竹さんに、何を求め、何を見出したのだろう。そして、その末になぜ生を貫かず、死を選択したのだろう。絡み始めた何本もの糸のその結び目に、僕が解き明かさなければならないいくつもの謎が滲み出ていた。その時、僕は決めた。直が置き土産として遺した旅行券を使って、直と僕との間に横たわる深い溝を埋めに行こうと。

 竹さんは乱暴を奮ったり、怒鳴り声を上げたりはしなかった。ただ、その声が枯れてしまうまで、直の名を呼び続け、自分の辞書になかった『死』という言葉を、頭の中の辞書のどこにどのように書き込めばいいのか、苦悩し続けていた。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(44)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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