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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(51)

〈前回のあらすじ〉
 小田原のビジネスホテルで孤独な一夜を明かしたまことは、そこから東海道線に乗って清水を目指した。そして、窓の外にきらめく相模湾を眺めながら、諒は魂を抜き取られたように肩を落として水族館をあとにした柳瀬結子のことを思い返していた。柳瀬結子は父親の心中相手ではなく、ただしの恋人だった。しかし、その直に唐突に別れを告げられた。諒の口から直の死を知らされた柳瀬結子は、諒の腕の中で静かに泣いた。

51・そのうち、どこかで諒とも鉢合わせになるさ

 昨夜、居酒屋の店員であるもう一人の「香織」と熱い夜を過ごしたので、さすがの黒尾もキャプテンシートで居眠りを始めた。ジャケットをはだけて、革靴を脱ぎ、ポテトチップスの袋を抱えたまま眠る姿は、まるで大きな子供のようだった。

 山の稜線に太陽が姿を消し、赤かった空が見る見ると濃紫に変わる頃、かおりは清水インターチェンジで高速道路を降りた。後部座席を振り返ると、まだ黒尾は夢心地だったので、かおりはそのままETCで料金所を抜け、ナビゲーションシステムを起動させた。

 退勤する車や帰社する営業車で道路は混雑していたが、ここまでの道のりで十分ワンボックスカーの扱いには慣れたので、かおりはナビゲーションシステムの案内に従って、渋滞を縫うようにして三保の松原を目指した。

「黒尾さん、着きましたよ」

 かおりは、旅館の駐車場にワンボックスカーを止め、シートベルトを外しながら後部座席の黒尾を起こした。

「あれ?もう着いたの。一人で大丈夫だった?」
「えぇ、ナビがありましたから」
「へぇ、大したもんだ。オレのお嫁さんになってくれないかな」

 あくびをしながらそんな軽口を叩いた黒尾を「お断りします」と言って、かおりは一蹴した。

 当日の予約で部屋をとったにもかかわらず、家族で営む小さな旅館では、遠路はるばるやってきた男女をねぎらうように、すでに晩の膳が用意されていた。それはもちろん部屋を予約した黒尾の配慮でもある。

 市街地から離れていることもあり、三保に飲食店があるのかもわからなかったし、あったとしても到着する頃に店を閉めてしまっていることも考えられた。実際に到着してみるといくつかの飲食店はのれんを出していたが、そこからチェックインし、昨夜のようにのんびりとでかけた頃にはオーダーストップの時刻だっただろう。改めて用意周到な黒尾とキャプテンシートでうたた寝をする黒尾のギャップが、かおりには微笑ましく思えた。

 夕食の調理は主人と息子が担っており、かおりの父親と同じくらいの年齢だろう女将が、小さな身体を機敏に動かしながら、丁寧に配膳した。フロントでチェックインを受け付けた若い女性は、娘か嫁であろう。

「わざわざ福島からねぇ。ご親戚か誰かいらっしゃるの?」
「えぇ、友人を訪ねてきました」

 女将の問いにかおりが躊躇していると、黒尾がケロッとした顔で答えた。

 そんな軽い質問にも即答できないくらいかおりが落ち着きを失っていたのは、黒尾が和室を一室しか予約していなかったからだ。二人は居間に置いた座卓を挟んで向き合っていた。宿帳に名前を記載するとき、女将が微笑ましく二人を見ていたのを、かおりは思い出していた。宿帳には「黒尾圭一郎」と「佐藤かおり」と書いた。だから、女将はかおりたちを婚前旅行のカップルだと思い込んだに違いない。そう考えれば、むしろ部屋が別々のほうが不自然になる。それにしても、道中で気さくに会話できた黒尾だというのに、いまさら一つの部屋で向き合うと、なぜかかおりの鼓動は高鳴ってしまうのだった。

 座卓の傍らで女将が膝をつき、一人一人の茶碗におひつからご飯をよそった。その仕草はとても柔らかく、かおりは自分の幼い頃を思い返していた。その頃には、まだ母親も病に伏しておらず、祖母も健在だった。そこには活気に満ちた父親の姿もあり、家族は絵に書いたように円満だった。そんな光景を蘇らせたかおりは、鼻の奥がツーンと痛むのをこらえるために、少しだけ天井を仰いだ。

 その間、話し上手な女将と、聞き上手な黒尾が軽快な会話を交わしていた。

「明日、友達と会ってみて、長居するようなら、また世話になるかもしれない。ひとまず、明日の晩も泊まらせてもらおうかな」
「それはありがとうございます。板前にもそのように伝えておきますね」

 そう言うと、女将は畳に額を擦るのではないかというくらい低頭にして、部屋を退いていった。

「平日ということもあるだろうが、思いの外、安い宿だった。個人経営の小さな宿ながら、ちゃんと旅行券も受け付けてくれたのも、ありがたい」
「優しそうな女将さんでしたね」
「なんだか、しみじみと遠くに来た感じがするよ」
「はい」

 かおりが意識的に広角を上げてそう言うと、黒尾は箸置きに載せられていた箸をとった。

「せっかくここまで来たのだから、とことんいろんなところを調べ尽くそうぜ。そのうち、どこかで諒とも鉢合わせになるさ」
「そうですね」

 かおりは黒尾に気づかれないように、小さく洟をすすった。

「さぁ、食おう。ずいぶん美味そうな海の幸じゃないか」

 かおりの心情に気づいているのかいないのか、黒尾は無邪気に赤だしのアサリの味噌汁をすすっては唸り、柔らかく似た金目鯛を摘んで口に運んでは、また大きく唸った。

 それに倣って、座卓に大袈裟なくらい大きく広げられた膳に、かおりも箸を伸ばした。そして、黒尾に負けないくらいの舌鼓を打った。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(52)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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