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非凡に取り憑かれた人々

非凡って何でしょう。
人なら誰しも多かれ少なかれ抱く、非凡への憧れを、このnoteではぼんやりまとめます。

多かれ少なかれ、人と違いたがり屋

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皆さんは、人とちょっと違っていたり、他人から「変わっているね」と言われるとどう感じますか?
逆に、「すごく普通だよね」「ありふれているよね」と言われると、どのように感じるでしょうか。

前者の方が言われるとちょっと嬉しい、という人の方が多いのではないかと思います。

どこにでもいそうな人や、特徴がすぐ挙げられないような人間でいるよりも、変わった奴と思われる方がなんだか気分が良いもの。
さらに、そこに「すご味」という眼差しがプラスされると、なおのこと気持ちが良かったりするものです。

○○さんてすごい!
○○は(良い意味で)変わってるよね。

自分がいない所であっても、噂されるならスゴイイイネと思われたいという気持ちは、人間として誰しもが抱いています。
程度の差こそあれ、自分は他の人とは違うと思っているし、そう思われたいし、人と違いたがり屋さんだと思います。

人と良い意味で違っていたいと思う気持ちを原動力に、物事に前向きに取り組んだり、目標に向かうこともあります。
しかし時に、人と違いたがり屋な気持ちが自分を縛り、苦しめることも

次からは、非凡とは何なのか、非凡は悪か、非凡を実現するためにはどうすれば良いのかについて述べていきます。

非凡≠天才。非凡とは

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そもそも、非凡とは何でしょうか。

非凡と検索すると、トップにOxford Languagesの定義が出てきて、「一般の人よりずっとすぐれていること。」とあります。
一方凡は、なみなみ。普通。ありふれた。すぐれていない。という意味で、非が付くと、凡に非ず、つまりフツーじゃなく、すぐれているということです。
しかも、一般レベルより「ずっと」という強調付きです。

では、非凡とは天才かというと、そうではないと私は思うのです。
たしかに、一般的な人より優れている天才もいますが、非凡は天才までいかないレベル感なのではないでしょうか。

完全に個人の心象ですが、天才=歴史上レベル。もしくは努力の先に存在するレベルを指すイメージです。
人から天才〜って称されたら、もはやそういう形容詞というか、本来の天才の意味とはちょっと違う形容詞として使われている気がします。
言われても、「いや天才ではないがな」って、いちいち言われた方も言った方も突っ込まなくてもわかっている感じ。

一方の非凡は、なんか頑張れば目指せそうな位置感です。

しかし、非凡は天才のような言葉のダウングレード化も起きていなくて、まだまだ目指すことが不可能ではない感じの、"ちょっとすごいゾーン"

非凡願望の罹病期間

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非凡になりたいと願い、時にその思いに突き動かされたり、取り憑かれたりする期間、つまり、非凡願望の罹病期間は人生でどれくらいなのでしょう。

思うに、3歳〜75歳くらいなんじゃないかと。


ながっっっっっっ!


って感じでしょうか。

人それぞれ罹病期間の長短があると思うのですが、それくらい非凡願望に取り憑かれる時期って長いものなんじゃないかなと思うのです。
非凡願望の罹病ステージは次のようなイメージです。

幼少期:ヒーローやお姫様になりたい!自分はなれると盲信するフェーズ
青年期:大人がどれも同じに見える。あんな風になりたくない。埋もれたくない。自分はならない。何者かになるぞというフェーズ
成人〜若手期:安定もしたいし、生活や仕事が嫌いなわけじゃない。それでも好きなことでいつか起業したり成功したい。自分はやってやるというフェーズ。
中年期:仕事も私生活もパターン化しているが、これまで責任感を伴うことも公私ともにあり、何もしてこなかったわけではない。同僚や同級生に先んじて、そんなこと成し遂げたのかということを形をもって残したい。また、何かを始めたいというフェーズ。
老齢期:仕事や子育てもリタイヤし、現役中は時間がなくてできなかったことに打ち込みたい。歳取った風にはなりたくないから、語れる何かに勤しんでいたい。周りに頼りにされる知識とスキルを持っていたいというフェーズ。

完全に個人的なイメージですが、人生のほとんどの期間において、非凡でありたいという願望に煩わされるのではないかなと思っています。

非凡に憧れるワケ

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では、なぜ人は非凡でありたいという憧れを抱くのでしょうか。
それは、才能のないオンリーワンが認められにくい社会や、コミュニティーに原因があるのではないかと思うのです。

みんな違ってみんないい

そう幼い頃から言われたり、歌われるほど支持を集めているこのフレーズ。
ですが、実際の日本社会では、今なお輪が重視されがちです。

人が2人以上集まれば組織と化し、異論を唱えると異質なものとしての扱いを受けることも。

学校でも社会でも、なるべく変人だと思われないように過ごしてきます。

みんなオンリーワンだよ、輝いているよ、という言葉とはうらはらに、没個性化していく自分に耐えられなくなってくるのではないでしょうか。
元来真面目だとなおさら、「こうでなければならない」というイメージの中を飛び出すことができず、ますます紋切り型にはまっていき、どんどん非凡願望の罹病期間は長くなるというサイクルにはまるのではないでしょうか。

次からは、なぜ凡から脱せないのか、そして、脱凡方法を考察します。

動けないから凡

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非凡になりたい、ありたいと願いつつ凡である原因は何でしょうか。
こうなりたい、ああはなりたくないと明確に分かっていても、動けないということが往々にしてあるかと思います。

面倒臭い
時間がない
何から始めれば良いのかわからない

このようなことが、非凡へと進もうとする際に足かせになることもあるでしょう。
動かないということは、凡の原因になります。

ちょっと一歩を踏み出してみれば、非凡になれなくても、気分転換くらいにはなるかもしれませんし、何か見出すこともあるでしょう。

安定と安住の狭間で凡

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先ほど、非凡の罹病フェーズを年代ごとに記載しました。
年齢が高くなればなるほど、安定と安住がかえって非凡に踏み出そうとするのを阻むことがあります。

安定の仕事がある、収入がある、家がある、家族がある、友人がいる、住み慣れた土地がある、コミュニティーがある。

こうしたことは、心の健康を考えた上でもとても良いことです。
そして、人が人らしく心も体もバランス良く生活するために重要な要素とも言えます。
しかし、これらは凡のフルコースのようなもの。

非凡になる時に、どれかが危ぶまれる可能性も無きにしも非ずという覚悟はいるかもしれません。

安定と住み慣れた場所への固執。良くも悪くも絶妙なバランスから離れられないことで、非凡に憧れつつ凡してるなんてことも…。
安定のまま住み慣れた場所で非凡へ達することも不可能ではありません。

しかし、非凡になりたいと思いながら、非凡目標としていた年齢を超えて何年、何十年も経っていたら、安定と安住が非凡を遠ざける原因になっているかもしれません。

夢があるから凡

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これまで、非凡への想いとはうらはらに、凡のままでいる原因らしきことを書きました。

憧れの非凡、夢の非凡、寝ても覚めても非凡への執着。

たしかに、一刻も早く非凡へ達したいという気持ちもわかりますが、凡の状態も決して悪いことではありません。

なぜなら、夢や実現したいこと、叶えたいことがあればこそ、非凡に憧れるからです。

つまり、非凡への想いが現実からの束の間の逃避につながったり、生きる糧になることさえありえます。
なので、非凡に憧れている状態、凡であることが必ずしも解脱すべき状態とも言い切れないのです。 

非凡を実現する方法

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凡状態進行中の方には、凡が悪くないことは日々実感していることと思います。
気になるのは、どうやったら非凡になれるのか、もしくは、非凡願望が取り除けるのかということではないしょうか。

非凡を実現するために考えうる方法は、次の2つです。

1:人からの評価を気にしない
2:慣れを壊す(人、環境、行い)

まず、人から「あの人って非凡よね」という評価が欲しいからこそ、非凡願望は生まれます。
なので、そもそも人からの評価を気にしないで生きてみるというのも手です。

どうしても人の意見や声は耳に入ってきがちですが、シャットアウトしてみると、そもそも非凡でありたいと思っていたこと自体の根本を問い正すようになるかもしれません。
自分にとっての非凡が、案外とても狭いコミュニティーでちやほやされることだと気づいて、なんだかバカバカしくなってくるなんてことも。

そうなると、もっとスケールの大きい非凡さ(目標)が生まれてくる可能性もあります。
自分にとっての非凡さを見直すきっかけにもなるので、一度、自分を評価しうる人物やコミュニティーから、一歩離れてみると良いかもしれませんね。

そして2つ目に、慣れの破壊です。

安定、安住の箇所でも触れましたが、慣れ親しんだ場所や人は、とても甘い蜜を出し続けてくれるんですよね。
居心地が良くて、このままでも悪くない、むしろありがたいとさえ感じることもしばしばあります。

でも、非凡願望と凡現状の往来に疲れてしまっていたら、そこには何か改善が必要となってきます。
そんな時、やってみる価値があるのが、今現在慣れ親しんでいることの断絶です。
もう一生涯絶つとまでいかなくても、しばし遮断してみるだけでも、新しい発見につながる可能性があります。

頻繁に会う人やコミュニティー、集まり、習慣など、もはや考えることなく選択して行っていることなどを一旦やめみてみることで、すでに自分の中の凡状態からは1センチくらいは離れていることに気づくはずです。

そんなこんなの積み重ねで、これから先の人生も、非凡願望を手放したり、非凡に到達したりしなかったり、悩ましく生きていくことでしょう。

非凡、とても魅力的な状態ではありますが、結局凡も悪くない。
そんな想いを今日も行ったり来たり。

どこかで非凡心に取り憑かれている全ての人へ。愛を込めて。

凡を楽しみ受け入れつつ、今日もどこかで非凡を目指しましょう。

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