見出し画像

「日本軍兵士」吉田裕著を読んだ

「戦争で戦っていた人はお風呂とかどうしてたんだろうね」以前、母が何気なく言っていた。戦争映画や資料集の写真を見ても、そこにあるのは銃を手に勇ましく戦う兵士たちの姿であり、風呂に入ったりご飯を作ったりと言った、日常生活では当たり前の一幕が戦場ではどうなっているのかは見えてこない。当時の国際情勢、官僚組織化した軍の出世争い、行き詰る外交・・・、大きな権力を持ったトップの動きだけでは、実際の戦いの現場を感じるということは難しい。この本は一貫して戦場で戦う兵士に焦点を充てて、過酷な戦場の姿を浮かび上がらせている。

著者は冒頭で語る。戦後長らく歴史研究者たちは、平和意識が強かったことから軍事研究を忌避した。軍事史の研究は歴史学者ではなく、専ら旧陸海軍将校の手によって行われてきた。そのような軍中央からみた戦争史には勇敢に戦った兵士を顕彰するという性格も帯びている。1980年代に入ると、歴史認識に関わる問題も噴出するようになり、そのあたりの研究に従事する歴史学者が増えた。そして、90年代には戦争体験を持たない研究者が多くなってきたことでより客観的に、そして専門分野を横断して研究は進められたと言う。歴史の研究は、当然過去の出来事を扱うわけだが、どのような立場でそれを受け止め解釈するかは研究する時代にも大きく左右されるということが分かる。以下、本の内容から主題を中心に目についた部分をピックアップしてみた。

食事・衛生

太平洋戦争において、戦史よりも餓死が多かったと言われることは多い。本書によれば、補給路が寸断されたことによって食料は現地まで届かなくなっていき、戦争末期には栄養不足により銃を持つ事さえできない体になっていたという。また、兵士たちの栄養失調は食べ物がなかったという理由だけではない。戦闘による心身の疲労、戦場の過酷さによるストレス・不安・緊張によって神経症により、食べたくても食べられない体になってしまっていた。鳴りやまない銃撃や炎天下での自給生活、疲れやストレスなど当然あったはずのものなのに、そのあたりの個人の感情や症状というものはなぜか切り取られている感じがする。近年に入って、戦争神経症という精神疾患が研究されているようだ。補給が追いつかなくなると、見方同士であるはずの日本兵がほかの部隊を襲って食料を強奪したり、人の肉を食べたというエピソードも生々しく記載されている。戦場では歯磨きや洗顔は全くできず、1938年、日中戦争の時点で7・8割の兵士が虫歯や歯槽膿漏になっていた。歯科医の数も少なく、兵士たちは正露丸を歯につめて痛みを和らげるしか方法は無かった。衛生管理が行き届かなくなればどんなことになるか、歯の痛みというのは我々でもイメージできるだけに一層リアルに感じられる。

身体

アジア・太平洋戦争当時まで、年々大きくなっていた日本人の平均身長・体重。だが、戦線の拡大によって徴兵制の幅は広げられ、大戦末期には徴兵検査の基準が緩められていく。それまでは動員されなかった体の小さい兵士も合格扱いにされ戦地へ向かうことになった。その中には知的障がい者も含まれていた。年齢基準に適していれば根こそぎ徴兵されたということだろう。栄養事情からも兵士の平均体重はどんどん減っていき、倉庫に長らく放置されていた小さいサイズの軍服がきれいに無くなっていった。

上下関係

軍紀を乱すとして本部からは度々改善命令が出たにも拘わらず、現場でのいびりや私的制裁は上層部の目にうつらない所で横行していたようだ。上官による虐待やいじめによって死者・自殺者も多数出たが、現地の医師の診断書では戦死として扱われた。初年兵は老兵から度胸試しに中国人の農民や捕虜を試し斬りさせたというエピソードまである。こういった話は復員した兵士が戦後に誰かに語ることは無かっただろうなと思わされる。

戦後

終戦後、現地から帰ってきてからもマラリアが再発したり、熱帯地域で軍靴を履き続けたことによりかかった水虫がずっと治らないなど、生々しい戦場の記憶は地続きになっていた。戦地で興奮剤として使われた覚せい剤ヒロポンへの中毒によって、軍が所持していた覚せい剤は社会に広がり、こちらも戦後長らく問題となった。

この本は、戦場の凄惨な体験をデータを使って記すことで、戦った一人ひとりの兵士に、それぞれの命と人生があったという想像力を与えてくれる。著者が言う勇敢な戦記ものに回収されない歴史とはそういうものなんだろう。戦後から長い年月が経ったことで、語り部も減り、個々人の物語は忘れ去られていく。今の世の中では、かつての日本軍が活躍した物語が、ヒーローショーのように華々しいストーリーとして求められがちだ。著者も最後の章で「近年の礼賛と実際の死の現場」として苦言を呈している。そこに生きた人間の目線で想像することの重要性。この本には、目次だけでも目を背けたくなるような惨状がありありと語られている。過ぎてゆく歴史の中に個々人の視点を忘れないリアリティを持てるか、今問われている。

#歴史 #太平洋戦争 #戦争 #軍事 #日本史 #近代 #現代 #読書 #本

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?