『委ねられている救い』
2024年8月18日
今日はまたルカによる福音書から取税人であったマタイを弟子とするところの話をさせていただきます。この話、ルカによる福音書では「レビ」という名前で出てきます。マタイによる福音書では「マタイ」、マルコによる福音書では「アルファイの子レビ」と出てきており。どちらもヘブライ語なので謎です。別人だと考える聖書学者もいますが、話の流れと内容からして別人というのはないかと個人的には考えます。
ややこしいのでここでは「マタイ」と表記させていただきます。
ちなみにマタイによる福音書の著者は伝統的に弟子のマタイと考えられてきましたが、マタイによる福音書がヘブライ語で書かれ、律法に精通しているために取税人に過ぎなかった弟子のマタイなどに福音書を書ける筈がないという考え方もあるようです。
■ルカ5:27~32
その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
当時のユダヤ人社会はローマ帝国の支配下にあり、その手先となって税を徴収し私腹を肥やす取税人は嫌われていただけではなく、罪人として認識されていました。そのため裕福ではありましたが、口伝律法(タルムード)によってユダヤ人会堂に入ることも許されていなかったようです。また、ユダヤ人は罪人とともに食事をすることも禁じていました。
しかし、取税人の生き方は割り切ってしまえば非常に裕福な生活ができていたのです。
そのようななかでキリストは収税所に座っているマタイに声をかけ、弟子にしたのです。マタイはすべてを投げ捨てて従いましたが、それはユダヤ人社会から隔絶された状態でさらに収入も失うことを意味しており、簡単な選択ではなかった筈です。マタイは罪人としての生き方を割り切れずにいたのかもしれません。
この後、ルカによる福音書は断食についてファリサイ派、律法学者とのやり取りが続きます。
■ルカ5:33~35
人々はイエスに言った。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」そこで、イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その時には、彼らは断食することになる。」
恐らくマタイの家で罪びととの飲み食いの場を見ていたファリサイ派、律法学者たちが今度は断食の件で断罪しようとしたのではないかと思います。ファリサイ派、律法学者たちは断食をよくしていたようで口伝律法による断食の規定に忠実でした。ヨハネの弟子たちも断食をしていたことを引き合いに出しています。
断食は今のクリスチャンもしますが、そもそも何のために断食をするのでしょうか。
皆さん、断食についてどう思われるでしょうか。
【まとめ】
意外かもしれませんが、律法が定めている断食は年に1度、ティシュリーの月の10日である大贖罪日(ヨム・キップール)の日のみです。しかも、「断食しなさい」と書かれている訳ではありません。
■レビ23:27~29
第七の月の十日は贖罪日である。聖なる集会を開きなさい。あなたたちは苦行をし、燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。この日にはいかなる仕事もしてはならない。この日は贖罪日であり、あなたたちの神、主の御前においてあなたたちのために罪の贖いの儀式を行う日である。この日に苦行をしない者は皆、民の中から断たれる。
大贖罪日は仮庵祭(15日)の直前に行い、イスラエルの民全体の贖いを請う大切な時でした。
現在のイスラエルでもこの日は街の信号機すら停止して走る車が無いという状態になるそうです。そして、ユダヤ人は皆、悔い改め、自分自身の罪を振り返るだけではなく隣人への赦しあいができていたか、困っている人を見捨てていなかったか、自分のことだけを考えていなかったかを思い返し、自分のあらゆる欲求を抑え、赦しを求めてひたすら祈るそうです。
本来はイスラエル民全体の救いのために祈る。その際の苦行のひとつが断食で、人によってはスマートフォンを使わないようにしたり、化粧もしないというにような人もいるそうで自分のための行いを控えるということが大切なのだと思います。
こういう習慣は本当にいいものでクリスチャンも見習うべきではないかなと思います。そして、この習慣は今回の話の本質をあらわしているといえます。
ファリサイ派や律法学者たちは自分たちがどれほど神に忠実かということを見せるため613あるといわれる律法を勝手に解釈して多くのルールを追加していて、そのなかには断食するというルールがいくつもありました。でも、彼らの断食は人に自分の信仰の正しさを見せるためで、霊的な意味を失っていたのです。
ヨハネの弟子たちは度々断食したのは民の救いのための悔い改めであり、貧しく虐げられた人々の救いでした。悔い改めは自信を罪人に定めなければなりません。ところが、ファリサイ派や律法学者たちは取税人たちを罪人として自分たちに罪はないと考えていたのです。ですから、自分たちが癒しを願う人の妨げになっても正しい律法を説かれても何も感じることなく、ただ、虚しい断食をするだけでした。
■ルカ5:37~39
また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」
ここで古いものと新しいものの話をしていますが、ここでの古いものは「律法」です。対して新しいものに対比されているのが、口伝律法(タルムード)です。当時の彼らは口伝律法によって律法を台無しにしてしまっていたのです。救われるべき罪人をないがしろにして自分だけを高める律法はありません。
■ゼカリヤ7:5
国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にもあなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが果たして、真にわたしのために断食してきたか。
私たちが主の前に断食をするなら食事をしないというだけではなく、自分のための行いをまず、すべて置くことが必要なのではないかと思います。
そして、キリストから委ねられている救いのため私に何ができるのかということを心と精神をつくして祈り求めていく必要があるのではないでしょうか。
■申命記6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。