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小説調で読書を語ってみる。

思い立ったが吉日。というやつである。

私、能鷹Seekは久しぶりに読書をしたのだ。投稿自体も久しぶりなのはここではあまり触れないでおこう。

もともと文学は嫌いではない。

嫌いではない、と書いたのは、読書という行為は好きだが、いわゆる読書家ではないからだ。

哲学、心理学、政治学、歴史、SF小説、古典小説。興味のある本は買うが、買って満足してしまう。私の本棚は読みかけの本で埋め尽くされている。

だから文学好き、読書好きというには申し訳ない書籍との触れ合い方をしている。好きというのは少しおこがましい。

普段はtwitterの140文字しか読まない私にとって、たかが10ページのSF小説も難解文書に変わっていた。大学生の頃に1週間で1冊は新書か小説を読んでいたなんて、しかも寝る間も惜しんで読んでいたなんて、まったく信じられない人間になってしまった。

目に入る難解文書を理解しようと思う脳みそは私の中から消えていた。

鬱病の手前を経験し、LINEすら読めなくなった時期は確かにあった。だが今はその時とは違う。文字を追いかける能力の低下を、疲労のせいにするのには少々無理がある。今日は日曜日なのでなおさらだ。

そこで私は思いついた。

本を「読もう」と。

文字が追えないなら読み上げればいいのだ。音に変換して簡易化して脳に物語を教え込めばいい。つまり、音読である。

そして読み始めた。

放置していた本棚から柞刈湯葉さんの『人間たちの話』を取り出す。

Amazonのリンク貼る練習ができた。いつかアフィリエイト稼いだりしたいがそのいつかが踏み出せない。それはさておき。


かつての私は75ページまで読んだらしい。しかし内容がわからない。いつ読んだのが最後かすらわからない。1か月前だろうか、3か月前だろうか、半年経ったのだろうか、そんなに古い本ではないから1年はたっていないと思う。浦島太郎状態なので69ページまで戻った。大体数ページ戻ると、大筋を思い出す能力が私には備わっている。これもあって本を継続して読んでいないこともあるが、怠惰な読書家にはありがたい能力である。

ネタバレや著作権等考慮できる程度の文章を抜き出してみる。

…多種多様なプロパガンダ・コンテンツを供給している。

これを声に出して読んでみた。

「たちゅ…た、たしゅちゃ…たしゅちゃよう…多種多様なプロパガンダコンテンツをきょ、ちょ、きょうううゆ、供給している。」

私は自分が信じられなかった。これは誇張ではない。本当のことなのだ。

字が読めない。読むことはできるが読み上げられないのだ。口がまわらないのだ。自分の発声のたどたどしさにただ驚くことしかできなかった。

カタカナは読めるのだ。この小説には「イースタシア」という架空の国名も出てくるが、これはもともと広く使われている語のようにすらすらと読み上げられた。

だが、漢字が読めない。

嫌な笑みがこぼれた。音読をするという行為に口が慣れないからかと思ってさらに読み進めた。同じことが起こる。難しい―といっても「多種多様」レベルの単語が流ちょうにしゃべれない。

長めの初めて見る英単語を片言で読むがごとく、私は日本語を親しみある言語として話せなくなっていた。

もともと口数が多い人間ではないから、会話は苦手だ。言葉が出てこず、会話に詰まったり、もごもごした話し方や吃音のようになることも多い。そのうえ勢いで話すと他人を傷つける言葉を言うか、遠回しで難解な言葉を使いがちなので、考えて話す癖がついている。

だが、発声ができなくなっていたのだ。ただ知っている言葉を口に出す、これすらできなくなっていたのだ。かつて使えたはずの言葉が、知らないうちに自分からこぼれていき、欠けていき、語彙がせばまっていた。

語彙力や知識には自信があったつもりだった。だが、かなり限られた語彙しか操れなくなっていたことに気づいた。それも知らないうちに消失していたのだ。

なんという悲劇であろう。

これで日本語の先生になりたいなどとよく言えたものだ。会話が下手でつらいともよく言えたものだ。

淡々と日常を過ごすことで己の語彙を減らしてしまっていたのだ。

情報量を絞ったtwitterに慣れすぎて、会話をしないことに慣れすぎて、大切なものを失いすぎていた。

とにかく、このタイミングで気づけて良かった。これからまた、日本語をうまく話せるようになるトレーニングとして、音読を続けていこう。

文体が崩れてきたので、今日はこの辺で終わろうと思う。


読んでいただきありがとうございました。

結構楽しかったのでまた本読んだらやるかもしれません。よろしくお願いします。

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