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-言語化と非言語とわたし-

こんばんは。

いかがお過ごしでしょうか。

今夜は「言語化と非言語とわたし」ということで、まずは、Twitter、Facebook、Instagramでツリー投稿した記事を掲載します。

そこから、こちらnoteでは、より深掘りしていけたら、と考えております。

初めに、断っております。

今夜の記事は、おもしろいです。

<以下、ツリー記事>

わたしは高校入学まで場面緘黙で人のいるところでは喋らない人間でしたので、未だにコミュニケーションの殆どは非言語コミュニケーションによるところが大半を占めています。

人格が形成される15、6才までを非言語の世界で生きてきたので、今でも咄嗟の判断ではどうしても非言語になってしまいます。

咄嗟の判断で非言語になる、というのは、具体的には、アイコンタクト、空気の支配、ニュアンスの強化、会釈などその他、無声相槌などを含むという感じ。

少し考え方を変えると、今、演劇の世界で取り組んでいる非言語の世界の極みであろう音作りには、一役買っている可能性もある、と感じております。

しかしながらも、そうした自分の置かれている状況を、きちんと言語化するようになってきた言語化力は、様々な本を読んだり書いたりする中で、後天的に身につけてきたものと思っております。

加えて、いつも言葉足らずなわたし自身の弁明を含めて、というところです。

とはいえ、そうした脳内で言語化される前のもやもやを、そのままの形で脳内に堪え切る能力というのは、わたし自身の病状への対応、というより神対応や、音楽やアートへの最適化として、こちらは非言語の世界というよりは、作為的かつ後天的なもの、という考えが有力なのかな、と考えております。

<ツリー記事、ここまで>

まずは、場面緘黙について、少し語ります。

わたしは、場面緘黙、とひと言で片付けるにしても、その人、その人の様々な状況があるように感じております。

わたしの場合は、比較的、人とのコミュニケーションは図るタイプで、喋らないけれど、それなりに色々なコミュニケーションを取ろうとする人間でした。

それでも、客観的に見たら、自閉的な印象であったことは、疑う余地もありませんが。

或いは、今でもその肌身に染みついた毛色は抜け切らず、どうしても初対面で、特に、面と向かって話す機会のない人たちからは、必ずといっていいほど、根暗で、陰湿で、陽気さのかけらもないような印象を持たれることでしょう。

まぁ、仕方ないこと、と考えております。

そして、非言語コミュニケーションとは、具体的には、何をするのか。

例えば、相手の話を聞くときには、アイコンタクトを取りながら、適度に無声相槌を打つように、そして、普通なら咄嗟に言い返すような場面では、どうしても、咄嗟に空気コントロールや、無言の圧力などの非言語コミュニケーションを選んでしまいます。

そして、ここからは、少し即物的な話をすると、わたしが脳内で言語化したものを、喉元で飲み込む、という場面が、近年では増えてきております。

そこに関しては、緘黙などの件は、あまり関係していないのかな、と考えております。

理由は、一つしかありません。

それは、古い友人、わたしの責任で自ら命を絶つことになった古い友人から、生前、わたしは、あなたは口が軽いから、ほんとうに気をつけた方がいい、ときつく注意されておりました。

その言葉を、わたしは、片時も忘れたことはなく、ここ二、三年に至っては、新しい環境や新しい人間関係ばかりの日々で、なかなかおいそれとわたしの人となりを理解してもらえる環境ではないため、より注意深くなっている、とそういう要件です。

それでも、余計なことを言わないように、人を傷つけないように、軽はずみなことを言わないように、と慎重に気をつけているにも関わらず、あんなこと言わなきゃよかった、失敗した、失言だった、と後悔することばかりの日々ですから、まぁ、言語コミュニケーションとは、かくも難しいもの、と感じております。

そして、加えて、言語化や非言語、というと、とても興味深く読んでくださる方々もいるのかな、と思いますので、音楽やアート、文学の話題にも触れておきます。

坂本龍一さんが、著書でとてもおもしろい発言をされておりました。

インストゥルメンタルの音楽を作る、というのは、脳内で言語化される手前のものを、そのまま音に置き換える感覚です、と話されておりました。

わたしは、そこには、同意します。

音楽やアート作品については、脳内でまったく、かけらも言語化されていなかったとしても、他の方法で表に出すことができる、とてもおもしろいツールだな、とわたしは感じております。

そして、文学については、短歌や小説、という媒体による差異はあるものの、言語化されていないものを、いかに適切な言葉を選び言語化するか、或いは、言語化されたものを、更に、煮詰めて、一旦、脳内の言語化される前のものへと抽象化し、そこと比較して、もう一度、今度は別な形で言語化してみたりする、そうした試行錯誤のくり返しです。

いわゆる、言語化と抽象化を、エンドレスでくり返す、それが、わたしの感じる小説や短歌の、一番の醍醐味だと感じております。

一旦、言語化されたものを、もう一度、最初の形のままになるよう、抽象化して、他の言語化を探る、というのは、多分、文学ならではの楽しみではなかろうかな、と思います。

と、まぁ、言語化と非言語について、思うところを、つらつらと書いてみました。

まとめとしては、言語化することもあっていいし、言語化しないことがあってもいい、とわたしは思っております。

今の、昨今の世知辛い世の中では、自分のみならず、あらゆる他者に、強制的な言語化を強要している場面、というのは少なくないかと思います。

そうした、世の中の風潮に対して、一石を投じることには、ならないとしても。

もう少し、言葉の裏にある、誰かの言葉の裏にある、他者の、自分の、言語化されていないものを見つめる時間が、一日の、いや、一か月のあいだに、ほんの少しの時間でも持つことができるといいな、と思います。

それでは、ご機嫌よう。

また、春の終わろうとする頃に。

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