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祖母の94年史⑨:30代の専業主婦生活・前編(34-39歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
第9回目、30代の専業主婦生活(1960-1966年/34-39歳)です。長いので前後編に分けます。
教員を辞めて、じっと主婦をせず、自分で布を仕入れてきてはぎれ屋を始めた、というのは今回話を聞いて初めて知りました。アクティブ!
おじいちゃんの1か月の米国出張の話は、ちょっと胸キュンです。

1.専業主婦生活の始まり

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孝くん(長男)が5つ、靖くん(次男)が3つのとき33歳で教員を辞めて、それからは主婦をやった。小さい子供が二人もおって、碧さん(義母)も「よう面倒見ん」と言うようになったんや。
 その頃は、おじいちゃんが会社でえらなり始めとったからね、不思議なことに、辞めたらおじいちゃんの給料だけでやってけるようになった。

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図:当時の自宅

ー仕事を辞めて最初2、3年は、家事は碧さんがやっとった。私が嫁に来た時、まだ53歳くらいやったもん。まだしゃきしゃきやで、おばあさん気取りではおれんかったね。途中からお勝手は私がやるで心配せんでもええ、と言ってね。だから私は35、36歳くらいまで家事をやらなんだね。

ー昭和33年(1958年)頃に、教員を辞めたやろ。その頃には、はや洗濯機もあったと思う。電気冷蔵庫は小さいのを買ったんやろね(※1)洗濯機は、自動でグルグル回るやっちゃなしにね。回ることは回るけど、いちいち洗いが終わったら、今度それを手動で水を抜くんや。ハンドルがついとるで、ローラーを二つあわせた形になっとって、水を絞れるようになっとった。

※1「三種の神器」:1950年代後半、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の家電3品目が『三種の神器』として喧伝された。1956年の経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した神武景気以降、日本経済が急成長した時期である(Wikioediaより)

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図:ローラー式絞り機つきの電気洗濯機(Wikipediaより)


ーあとは私が辞めた年に、美智子さんが結婚さしたんや(1958年※2)。それをテレビで見とった記憶があるで、ちょうどその頃に、うちも買ったんやね。 そういうのを買うのは、わりにうちは早かったと思う。
 はじめのうちはテレビがなかったけど、教員を辞めてうちにおるようになってからは、テレビを見て世の中のことを知るようになったよ。歴史上の人?チャーチルとか覚えとるね。あとは、ソ連のレーニンの次の人。
ああそうそう、スターリン。毛沢東も、テレビで見て知っとるわね(※3)。

※2「美智子さんの結婚」:1958年から1959年にかけてのみっちーブームを契機にテレビが普及するなど、第二次世界大戦後の日本の経済、ファッション、マスメディアなどの領域で、社会に大きな影響を与え、女性たちの憧れの的となった。テレビ本放送は、1953年から。
※3「チャーチル、スターリン、毛沢東」:それぞれの在任期間は、祖母がテレビを入手した年代と少し時期がずれている。
それぞれ、チャーチル(首相:1951-1955年)、レーニン(ソ連共産党書記長:1922-1952年)、毛沢東(国家主席:1954-1959年)。

2.教員を辞めて、はぎれ屋さんを始める

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ー学校の教員を辞めてから、遊んどるのがつまらなんだけど、勤めに行く所も探しに行かなんだもんで、はぎれ屋さんを始めた。私は洋裁ができるので、はぎれを売ったり、そのはぎれで洋服を作ったりしようと思ったの。

 お店は、あんまり日が当たるとはぎれが焼けてしまうで、ひさしを出してね。品物の仕入れは、名古屋の布の問屋町があった。どうやって探したんかしゃん、一人でその問屋町に探しに行ってね、仕入れてきてね。量が多かったら送ってもらうようにして。

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図:新しくはじめたはぎれ屋さん

ー教員を辞めたばっかりで、子供らもまんだ小学生くらいやったやろうねえ。ほんで洋服の上着やズボンを孝と靖に作ったり。それくらいの子の洋服を作ったりしてね。はぎれ布より、そうやって作った洋服の方が売れたな。
 お客さんは元々近所の知り合いの人が多かったでね。それでも鷺山のほうから来てくれる人もあったね。

ー私が昔下宿をしとった先のおばあさんの長男夫婦らに、女の子がおったんやわ。その子が私のことをおぼえとって、いっぺん、はぎれ屋さんに遊びに来てくれたの。
 そのとき岐阜女子大がちょうど近くにあったんやけど、「ここの学校に来とるで、おばあちゃんに聞いて覗きに来たの」って言ってね。

ー下宿しとった頃はまんだ小学校5年生の子やったから、「えええ、あんたそんなに大きくなったの」ってなもん。ちゃんと訪ねてきてくれたねえ。おばあさんがまめな人やったでね。
 下宿先のおばあさんも、家に来てくれてねえ。岐阜の護国神社があるでそこまでお参りに来てはね、遊びに来てくれよった。齢とってござったのに、ようあんなところ見つけやしたしたねえ。

 どうやって探しやしたんかしゃん。下宿にはたった1年おっただけやったけど、本当によう来てくれたね。

(参考:下宿時代の話)

ーはぎれ屋さんは、いっときお客さんがたくさんあったけど、経理はあまり知らなんだでねえ。税金が問題になりそうやった。それに、金儲けをしようかと思ったんだけど、一向に儲からなんだで、まあ二、三年で辞めちゃった。

3.おじいちゃんのサラリーマン生活

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ーその頃は、経済のどんどんどんどんと発展してく時代やったもんでね。おじいちゃんも、染工会社の次長やったやろ。取引相手は、染料や資材をいれるのに、一生懸命買ってもらいたいもんで、夜に招待したんや。
 おじいちゃんはだいたいに酒飲みやったで、持ってこいやね。三十代の頃は毎晩のように飲んで帰ってきよった。

ー大ばあちゃん(義祖母)が死なしたときもね、夜中の1時に帰ってきたんや。夕飯食べとって具合が悪うなって亡くなった人やで、はや隣の伊藤さんも来てくれとるのに、おじいちゃんだけ連絡がつかへん。
 ほしたらね、タクシーに乗って帰ってきた。「何事が起きたんかしゃん」と入ってきてこっちは、「どこで遊んどったんや」っていうね。

 おじいちゃんはそういう境遇におるし、大好きな飲み会やもんで、お酒をやめるはずがない。まあだんだんと、ほかっとくようになったんや。

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図:義弟の結婚式のときの、夫婦で(つまり私の祖父と祖母)

ーそうそう、昭和36年(37歳)のことやった。おじいちゃんがアメリカの大きい会社で研修ということで、アメリカに3か月ほど行ってねえ。
 寂しくないかと言われたら、そんなことなかったねえ。旦那がおらんというのは、こんなに弱いもんかと思った。たった3か月やったけど、ほんで近所の夫婦でちゃんと二人でおる人を見ると、羨ましかったね。

 そのとき、おじいちゃんには私の父も餞別をくれたの。たいした餞別やないけどくれたんや。
 何色か入ったボールペンがあるやろう。当時日本にはなかったもんで、珍しい言って、それでお土産を買ってきてくれたんよ。洒落たもんやったねえ。

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図:若いころのおじいちゃん

5.世界はこの頃(1960-1966年)

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・世界的には、政治経済の保守化が進み、大国による軍事・政治的な介入の失敗(1960年ベトナム戦争、1962年キューバ危機など)から、大国政府への幻滅と不信感が広がる。アメリカではケネディ暗殺からジョンソン就任「グレート・ソサエティ」、大きな政府へ
・欧米でカウンターカルチャーとして若者文化が大流行し、世界各地に広がる(ヒッピー文化、反戦運動など)。若者と旧世代の間でジェネレーションギャップ広がる。
・国内では岸首相&安保闘争(1960)、池田首相&所得倍増計画、東京オリンピック開催(1964)など。ビートルズ来日(1966年)。
・ 世界の哲学、文学、音楽:ポストモダニズム・構造主義、

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(人物名や地名は仮のものです)

次回も、30代の後編をお届けします。私の曾祖母は当時に珍しくバツ2!おじいちゃんが生まれるまでの小話も含めてお届けします。
次回もお楽しみに!

(はじめに説明はこちらから↓)



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