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祖母の94年史⑧:仕事と主婦と育児の両立は大変(29-33歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
第8回目、共働きと育児両立に迫られた主婦時代(1955-1959年/29-33歳)です。昔は全自動洗濯機もルンバも電子レンジも無い。本当に大変だったそうです。

1.子供の名付け

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ー28歳で結婚して、29歳のとき孝くん(長男)、31歳で靖くん(次男)が生まれた。
 誰が名前決めたか?私やよ。私と碧さん(義母)とで決めたの。学校におった時に、「孝」言う子がよう出来て、良い名前だなあと思ったの。碧さんが神様を信仰する人やったで、私がこういう名前が良いで、行って時にして神様に伺ってもらったら、いいと言われて決まった。
 おじいちゃん(夫)にええか、って聞いたら「そんでええ」って。ちょっともそういうこと考えて決めようという、あれは無かったんやね。

ー靖くんも、本当は最初「次郎」にしようと思って、碧さんに神様に拝んでって言ったら、これがあかなんだの。それであと浮かばなんだもんで、どうしようどうしよう言っとって、本を見とったら誰やらの名前に「靖」というのがあって、それでもう一度神様に伺ってもらったら、それでええって言われた。

ー子供が大きなってから、私が三味線の稽古に行っとったら、姓名判断する人がおってね。それで見てもらったら、名字と合うとっても良い名前ですよ、幸せな人ですよ、って。
 昔は名付けの本も無かったもんでねえ。この前書店に行っとったら、中古のそういう本があってよっぽど買おうかしゃんと思ったけど、まあ曾孫の予定がないのでやめた。
 あんたん時も、今から考えておったほうがええよ。いざという時、思いつかんからね。

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図:晴子さんと靖くん(次男)

2.仕事と主婦業と子育ての両立

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ー竹花の中学校の教員は、結局33歳まで続けた。31歳で靖君が生まれてから、2年は続けとったよ。
 なんで続けとったか?仕事をやめても食べてけれんから続けるしかなかったんや。おじいちゃんと二人でならなんとか暮らせたんやろうけど、5人暮らしだからね。その頃、碧さん(義母)とヤエさん(義祖母)とで二人おったし、おじいちゃんの弟が大学の留年を2回もしとった。

 それでまあ、教員を本当に嫌々やっとったね。生活のために続けとったけど、無理で無理で、無理の上に無理が重なってやめた。

ー朝4時頃から起きて、ごとごとごとごととやって。学校いくと眠たて眠たて、仕方がなかったな。ほら、昔はお勝手は大変やったわ。勤めとるときは碧さんがお勝手を全部やってくれたでなんとかなったけど、ほやなければとっても勤めれるもんやなかったわ。

 お勝手場も、食卓の隣が3畳くらいのところでに縁を貼ってまって、土間やったもんね。タイル張りのかまどが二つくらいあって、薪で煮物したりしたね。お風呂も薪やったし…。
 井戸も、カチャンカチャンと、いちいち汲まな出てこおへんのやで。今みたいにスイッチ一つで動かへん。

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図:昔の土間のイメージ(wikipediaより)

ー子守りは、碧さんは家におったけど、毎日お地蔵さんにお参りに行かんならんもんで、子守りさんには、別に人が頼んであった。
 昔は安く頼めたんだろうね。孝君(長男)の時には、おばあさんが来てくれたから、孝君はおばあさんに育てられたようなもんだね。

ー孝君が幼稚園にあがる頃、碧さんが、おじいちゃんが卒業した少し遠くのキリスト教の幼稚園へ入れたがってね。「私がどうせお参りに行くで」といって、毎日わざわざ送り迎えしとった。
 私は、「わざわざそんなとこ入れんでも、かぐや幼稚園ならバスが迎えに来てくれるで」、って言ったんやけどね。夕暮れになると迎えに行きよったよ。

 その間、靖は朝から晩まで一人やったよ。近所の中村さんという人がいて、優しい良い人やったの。この人が面倒を見てくれたんだけど、そのうちその家が破産してまって、家を売ってまわしたんよ。
 それでその隣の人が代わりに見てくれたんだけど、奥さんも男の子もどやんちゃだったわね。

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図:仕事と主婦の両立は大変(晴子さん)

ー私は赤ちゃんの教育をあまり見とらなんだでね、もういっぺんやり直したいなあと思ったよ。
 生まれてから始終べったりで、親子の生活をしたかった。お金がなくて、教員を辞められなかったけどね。

3.伊勢湾台風の思い出(1959年/33歳)

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ー伊勢湾台風の晩は、会社におったおじいちゃんが、家に帰れんようになってまって、工場でひとばん守っておって。おじいちゃんも子会社の上の方におったもんで、工場を守らんならんかったし、他の人らもおったんやろ。
 それで家には私と碧さんと子供らだけやった。あの子らも小さかったんや。三つか五つの時やでね。

ー屋根がばらばらばらってめくれる音がするんや。どうしようかなあと思ったねえ。あの頃、戦後すぐにつくった家で、組んで並べるだけの瓦やったので、一つぱらっとめくれると、他のもぱらぱらめくれる。そうすると、板もちょこっとめくれて、空が見えるようになる。端っこだったから家の中に雨が漏りるようなことはなかったけどね。
 朝になって見てみたら、瓦がそこだけだらだらっと取れとったね。誰が直したんやろか。そういうこと、あの人(おじいちゃん)は全然やらん人やったもんね。

4.おじいちゃんという人

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ーそういえば最近、うちに新しい洗濯機が届いて、孝君(私の祖母と父は今同居しています)が何もかも交渉しとったのを見て、昔を少し思い出した。昔やったら、おじいちゃんはここの居間にでんとおって、ちょっとも出てこんような人やったで、私が工事に来た人と交渉して全部やらんならんかったで。

ーおじいちゃんは、家のことは全然、構わん人やったなあ。
 喧嘩にならんかったか?最初から、ダメな人やと思っとったからね。うちの人は、何にもわからん人やと思ったで。電気だま一つ切れても、「おかあさん、切れてまったよ」てなもん。
 孝くんも靖くんも、子どもらはそういうこと得意やし好きやけど、あの人はやろうという気もなかったもんねえ。

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図:30代の頃の晴子さんとおじいちゃん(夫)

ーおじいちゃんは週末になると、按摩さんに来てもらって、朝遅うまで寝とったね。今の夫婦やったら、ほら喧嘩になるやろうね。今では、だんだん腹が立ってきて、もうちょっといじめとけば良かったと思うもん。

 それでも終い頃にはね、昼にうどんを茹でて、私にもちゃんと食べさせてくれたよ。
 あとはあの人は21時には寝る人やったでね、朝早かったよ。朝私より先起きてきてね、網棚に乾かしとる茶わんを全部片づけて、食べる準備してござった。ごみほかりも、ちゃんと行きやしたもんね。

5.世界はこの頃(1955-1959年)

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・世界的には、冷戦構造が定着する一方、西側諸国では経済が急速に復興。都市が発達した。政治・文化はやや保守化し、対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の爆発的広がりにつながっていく。
・国内は、「もはや戦後ではない」(1956)。国内では、朝鮮特需を契機に神武景気が発生、1961年まで高度経済成長期が始まる。
・社会党再統一・保守合同で55年体制もスタート。昭和の市町村大合併(1953~1959年)
・ジャズ喫茶、歌声喫茶が流行。伊勢湾台風(1959年)。
・ 世界の哲学、文学、音楽:ポランニー、ハンナ・アーレント、アイザック・アシモフ、エルビス・プレスリー、ヒッチコック、オードリー・ヘプバーンなど

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(人物名や地名は仮のものです)

次のお話は、「34-40歳:始まる専業主婦生活(昭35~41)」です。昭和のリアルな主婦の暮らしが伝わってきました。今もそうだけど、昔の女性たちは本当に大変!
(次回の話はこちら↓)


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