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祖母の94年史⑦:親の反対を乗り越え結婚(28歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
第7回目、お父さんの反対を乗り越えての結婚(1954年/28歳)です。私が小さいとき、祖母からは、このエピソードをよく聞きました笑。

1.晩婚のワケ

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ーおじいちゃんとは、28歳で結婚したよ。当時にしては相当晩婚だね。みんな21、22で結婚しとったかね。
 娘が遅くまで結婚しとらなんでも、父も何にも言わへんかったよ。その頃、実家は女ばっかりだったで、姉たちもつまって来とった。戦時中で、結婚しようと思うと、若い男は招集されていったからね。見合いしようと思っても、相手がおれへん。身体の弱い人とか、戦争に行けへん人しか残っとらんかったからね。

ーだから、きょうだい皆、嫁にいき遅れた。
 でも、父も「嫁になんか行かんでもええ。みんなうちに部屋を作ったるで。結婚みたいなん、せんでもええ」って、そういう人やった。縁談を持ってくる人に対しても、「あんた何しにきやぁた」、ってなもんだった。
 大事な娘をやりたくなかったんやないの。一番上の娘をやったら、戦争で旦那さんが死んですぐ後家さんになって、嫌な思いしたんやろうなと思う。

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図:晴子さんの、生前の父

2.父の猛反対

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ー22、23歳で会ったのに、なんで28歳まで結婚しなかったか?父が、私をおじいちゃんとは結婚させたなかったからや。
 おじいちゃんが3人のこぶつきやったし、家も無かったもんだから、父が「そんなとこになんで行かんならん」って物凄い反対したの。それで、しばらく結婚をあきらめたんや。

ーそれに、父は酒飲みが嫌いやったの。自分の息子も酒飲みで嫌いやったくらいやでね。

 いっぺん、まだお付き合いし始めた頃に、おじいちゃんがうちの近くの鰻屋さんで宴会をやって、酒飲んで酔っ払ったまま私のうちに来たことがあったんや。酔っぱらってあんな格好で、初めて会ったのがそれやったもんで、父はおじいちゃんのことが嫌いやった。
 私もヒヤヒヤしたよ。おじいちゃんは普段は人嫌いな、おとなしい人なのに、酒を飲むと人が変わったように良く喋るからね。

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図:20代の頃のおじいちゃん(昭和20年代)

ー恋人の実家への初めての挨拶なのに、ましてやあのおじいちゃんが、なんでそんなことしやしたんやろうね。まだ付き合いが浅かったもんだから、友人の家に遊びに行くようなもんやったのかな。

3.そして結婚

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結局、付き合い始めて7年後の1954年にようやく結婚できたそうです。

ー私らは、碧さん(義母)のおかげで結婚できたようなもんだね。碧さんが私の父のところに、結婚を許してやってくれと、毎日頼みにござった。
 父のほうは、私を嫁にやりたくないもんで、言いたい放題に言ってござったよ。緑さんにも可哀そうな思いをさせた。

 それでも緑さんは、自分が好きな人と結婚できなんだで、息子には好きな人と結婚させてやりたいと思ったんやろね。二度も離婚して自分には結婚の運が無かったからね。

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図:結婚式の様子

ー結局父も、反対やったやつを許してくれて、父の兄弟や、私のきょうだいの旦那らも連れて結婚式にも来てくれたよ。市民会館やったで、なんかあんまり盛大な結婚式をやっとらんかったやろね。
 父は来たけど母は来なんだんやね。仲がいい夫婦やったんやけど、身体が悪かったんかしゃんね。 式のために駅まで歩いていくときに父がね、「嫌やったら明日でええで帰ってこいよ」って言わした。

 小さい家を長良に立てて、おばあさん二人と弟と暮らしとったから、そこに嫁入りした。私が行ってから、おじいちゃんの弟は半年で東京に就職し、3年経って、義祖母さんは死なした。

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図:結婚したばかりの一家
(右上から時計回りに、晴子さん、碧さん(義母)、おじいちゃん、ヤエさん(義祖母)、おじいちゃんの弟)

4.世界はこの頃(1954年)

図25

・吉田茂内閣(自由党)から鳩山一郎内閣(民主党)へ
・電気洗濯機・冷蔵庫・掃除機(のち,白黒テレビ)が「三種の神器」と呼ばれて、流通し始める。ヘップバーンカットが流行。
・映画『七人の侍』、『ゴジラ』、『二十四の瞳』、『ローマの休日』など

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(人物名や地名は仮のものです)

次のお話は、「29~33歳:共働きでの子育て(昭30~34)」です。当時、家電もままならぬ状況で教員を続けながらの子育ては大変そうでした…。
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