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祖母の94年史⑥:おじいちゃんとの恋人時代(22-27歳)

岐阜弁おばあちゃんが、大正15年から94年間を振り返るシリーズ。
今回は第6回目、おじいちゃんとの出会いと恋人時代(1948-1953年/22-27歳)です。祖父は、インテリで寡黙な感じの優しいおじいさんでしたが、70年前の恋人時代、甘酸っぱいです。

1.おじいちゃんとの出会い

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ー私が中学校に来てから、1年ほど経って、おじいちゃんが赴任してきた。戦争が終わった22、3年くらいやろね。終戦後にばーっと中学が出来たやっちゃで、私より1個か2個下の若い男の先生が、岐阜高専を出てきとったで。戦争帰りの人は、なんでやしゃん、そんなにおらんかったね。
 私は中学校で主に家庭科、体操、図工の先生をやっとった。当時、女の先生がまだ少なかったやろ。女子の体操が男女別で足りんかったから、私もやらんとあかんかった。

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図:おじいちゃん(晴子さんの夫、私の祖父)

ーおじいちゃんは名高専(※1)で化学を出とったから、理科・数学を教えとった。いつも遅刻して来とったから、どういう人やしゃんと思っとったね。朝、職員会があるやろ。いつでもその途中に入ってきよった。なんでひとつ前の電車で来んのやろと思っとったねえ。
 ちょっと変わったとこがあった。いや、だいぶ変わっとったんやろうねえ。全然友達がおらへんかったもんね。

※1「名高」 名古屋高等工業学校。1949年から、国立名古屋工業大学(名工大)とされた。

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図:校長先生と同僚の教員と(おじいちゃんは最後列中央)

ーそのあとおじいちゃんは、まだ結婚しとらんうちに中学校を出て行き、清水染工を受けたよ。中学校の先生をやっとるのが嫌やったで、一般の企業に勤めたかったんや。名工大の化学科を卒業しとるもんで、本当は東野ガスに行きたかったけど、受からなんだんやけどね。それでも、清水染工の給料は先生より良かった。
 22歳で中学校の先生を始めたから、5年もやっとらんかもしれんね。

孫注※おじいちゃんは、おばあちゃんの一歳年上です。

2.おじいちゃんの履歴書

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ーおじいちゃんは、名高専の3年生のとき、兵隊に行かんならんかったもんで、半年繰り上げやって卒業したんや。帰ってきたときの就職口も決まっていたらしい。九州の諫早だったかな。

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図:おじいさん18才・岐阜一高五年生のとき(昭和17年)

ーおじいちゃんは、当時3人のコブ付きやった。自分のお母さん、お祖母さん、あとは弟。兵隊から帰ってきて、九州へ行けばよい給料だったんだけど、自分の家がそういう状態で、親らを養わないといけない立場だったもんで、地元の岐阜に帰ってきたんや。
 そうね、そこでおじいちゃんが九州にそのまま就職しとったら、わたしも巡り合えなんだやろね。

 もともと名高で化学をやっとったから、石鹸でも作って商売しようかと、フラフラしとったらしいんや。そこで中学校の校長さんがござって、仕事が無いならうちに来てもらえんか、と言われたらしい。校長さんのことは全然知りもせなんだのに、どうやって探さっしやしたんやろ。

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図:おじいちゃんのお祖母さん(1935年頃の写真)

ーおじいちゃんは病気がなかったで、死ぬまで入院したりするなんてことがなかった。その代わり、結婚する頃はやせ細でがりがりやったの。昭和20年代は、戦争が終わっても米を手に入れるのは大変やったからね。私は田舎で米は食べ放題に食べて、60キロもあってよう肥えとった。

 おじいちゃんは海軍で働いた後帰ってきて、お義母さんの碧さんは自分の着物を揖斐のほうまで車でひいていって、食料を買いにいったらしい。碧さんは辛抱強い、苦労した人や。

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図:海軍技術少尉時代のおじいちゃん(1945年8月)

3.お付き合いからのデート時代

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ーおじいちゃんは、中学の先生の中でも、ひとりだけ垢抜けしとったんやろね。そういうところに惹かれたんかもしれんねえ。
 そうねえ、それを射止めたんやから、私も大したもんやねえ。どこがよかったんやろね。

 そうそう、おじいちゃんは、初めから少尉やったやろ。二等兵の人が、毎日パンツを・・・あの頃はふんどしやわね、新しいふんどしを捧げ持ってきたって言いやしたもん。 海軍でそういう生活したでね、あの人は下っ端で生活した、言うことがあんまりないんや。貴族的なところがあったのかもねえ。お洒落なことは、海軍で覚えたんやろうねえ。

ー海軍のコートの写真?これは多分、東山動物園に行ったときだね。

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図:デート中の祖母、寒いからと海軍のコートを着せてもらった。

ーおじいちゃんが寡黙?全然ちがう。当時は、ようしゃべる人やったよ。結構、なんていうのかね。明るい感じやったね。暗い感じが無かった。
 おじいちゃんは本読むのが好きやったけど、会ったその頃から学校でも本読んどったでね。

 長いことかかって、付き合ったよ。一番初めのデートでね、河合隼雄の哲学の本、何やったか忘れたけど、「これならわかりやすいで読んでみたら」って言って貸してくれてよんだよ。

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図:応援してくれる人が、二人の写真を撮ってくれた

ー色んなところに遊びにいったね。デートはちゃんと、おじいちゃんがしてくれとったねえ。私がどっこも知らなんだでね。岐阜まで遊びに来ることもしとらんかったで。ートはちゃんと、おじいちゃんがしてくれとったねえ。私がどっこも知らなんだでね。岐阜まで遊びに来ることもしとらんかったで。

 おじいちゃんはカメラが欲しかったんや。それで二人で半分ずつお金を出し合って買った。それが無かったら写真なんてそう残らなんだけど、カメラ買ったで残っとるやね。

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図:春、岐阜公園でのデート(詩は祖母が書いた模様)

4.世界はこの頃(1946~1953年)

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・世界では、東西ブロックの緊張始まる。NATO成立(1949)、朝鮮戦争、チベット侵攻(1950年)など。テレビの放送始まる。
・サンフランシスコ講和会議(1951年)、GHQの占領政策。
・国内では、レッドパージはじまる。ビヤホール復活(1949年)、リコープレックス発売をきっかけに、2眼レフブーム(1950年)、民放初の本放送/NHK大相撲の中継開始(1953年)
・街頭テレビが人気、蛍光灯が家庭に普及し始める。『君の名は』空前の大ヒット。

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(人物名や地名は仮のものです)

次のお話は、「28歳:そして結婚(昭29)」です。7年間の長い恋人時代のあいだ、結婚できなかったのはあるワケが…
次回もお楽しみに!

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