見出し画像

可能性と限界の狭間で

渡る世間は「夢」ばかり

「人生には無限の可能性が広がっている」
「自分の目指す夢に向かって成長しよう」


これまでの人生で、自己実現を軸に「可能性」と「成長」の話を何回聞かされたことだろう。

学生の時には「将来の夢」を事あるごとに聞かれた。折に触れて「君たちの目の前には無限の可能性が広がっている」との話を語られた。

就職活動では、「ウチの会社でやりたいことは何か?」「10年後はどうなっていたいか?」と
色んな会社の面接で質問を受けた。

新卒で働き始めてからも状況は変わらず、
というか、より厳しく問われることが増えた。
上司との成果面談では、日頃の業務を通じて
どう自分が成長したのかをクリアに言語化することが求められた。
キャリアデザインをテーマにした研修を受けて、
持ち帰った内容を発表させてもらう機会もあった。

社内のポータルを開くと、
「自分のキャリアを自律的に考えよう!」という
メッセージが出てくる。それをクリックすると、
自分の夢に向かってチャレンジしている同僚の笑顔の写真が表示される。どうやら社外でロールモデル的な立場で講演に呼ばれる人もいるようだ。

確かに、自分の可能性を考える機会を持つこと、
自分の成長に向かって努力することは非常に大切なことだと思う。
少なくとも「自分がどうありたいのか」について
何も考えないよりは、考える機会を持つ方がずっとマシだ。
その意味では、とても「夢」を考える機会に恵まれている。
それ自体は、とても幸せなことなのかもしれない。

一方で、「成長」「可能性」の話を聞いてどこかうんざりしている自分がいる。
前向きな話ばかり強調され過ぎていると思う。
光があれば陰があるように、
未来の可能性の話の裏には、現実的な側面、
個々人がぶつかってしまう障壁の話が存在する。
この部分がスコープから抜けているように思えてならない。

人生はしょうがないことでいっぱい


実際の現実の人生においては、
自分の力ではどうしようもない「限界」に阻まれることが多い。自分ひとりの努力や意志の力だけでは到底乗り越えられない過酷な現実がある。
誰もが同じ条件下で勝負している訳ではない。
与えられた環境も機会の巡り合わせも何もかもが
違う。
自分のコントロールを超えた、
宿命と言うべき現実を目の前に、日々格闘している。

自分が他の人と比べて幸福か不幸かを
議論するつもりはないが、
自分にも何とも受け入れ難い出来事
(家族、自分の病気)が人生の中にあった。

家族の病気

中学生の頃、父親が脳卒中で倒れた。
激務と不摂生がたたった。
幸い父親は一命を取り留めたが、
重い後遺症が残り寝たきりとなった。
会話もスムーズにできるとは到底言い難い状態だ。
それまでの人生では、私の中で一番心を許せる相手は父だと思っていたので、精神的にかなりショックを受けた。
そして、母とは小さい頃から折り合いが合わないと感じていた。その後の生活では、母と衝突する機会がかなり多く、相当のストレスを感じていた。
今思えば、母も父の病気に対して、相当のプレッシャーを感じていたのだと思う。
しかしながら、思い出す度に心が暗くなるような言葉を吐かれた経験は、自分の心に少なからず影を落とした。

それでも、大学卒業まで学費を出してもらった。
その点には感謝の念に絶えないが、一方で、
学生の当時、考えていた海外留学や大学院への進学について相談した時は良い顔されなかった。
その時は、非常に残念な気持ちになったが、
自分自身もたぶん一度社会に出て、親を安心させないといけないな、と自分を無理やり納得させることで、諦めざるを得なかった。

自分の病気

会社に入ってからは、自分がうつ病に倒れた。
私も自分の許容を超える激務とプレッシャーに耐えることができなかった。
また、仕事にかまけて不摂生な状態を続けていた。
父親が脳卒中で倒れたときと同じ失敗を15年近く経ってから自分も繰り返した。

休職してから復職するまで1年以上の時間を要したが、父親とは違い、自分は寝たきりにはならずに再び社会に戻ってくることができた。
その点は幸運だったが、休職前と同じように
働くことができなくなり、今度は思うように働くことができない自分と向き合う必要が出てきた。
休職前に散々考えてきたキャリアビジョンも体調面を考慮しつつ、全面的に見直さざるを得なくなった。

おそらく、自分よりも遥かに過酷な運命に置かれている方々は沢山おられるのだろう。
人それぞれ色々な事情を抱えている中で、
皆が一律に同じスタートラインに立っているわけではない。
どう頑張っても思うようにはいかない場面は出てきてしまうのだ。

「可能性」の背後に潜む「限界」に思いを馳せる

人それぞれ独自の「限界」を持っている。
実際のところ、「可能性」は無限大ではなく、
有限だ。
にも関わらず、「努力すればなんでもできる」
と言い切ってしまうのは、かなり酷であるように思う。
「(目に見える)結果を出していない人間は、努力が足りない」という見方には、何とも言えない息苦しさがある。

自分には価値があると信じられるか


周囲から期待される結果を出せなかったとき、
人はしばしば自分自身を責めてしまいがちだ。

私自身も仕事がうまくいかないと感じることが多い。
今のままでは努力が足りないかもしれない、
うつ病にさえならなかったら、と思ってしまい、
自己嫌悪に陥りそうになることもしばしばだ。

しかし、それでは、あまりにも生きづらい。
こういうときに大切なのは、「可能性」と「限界」の狭間に立って、自分は十分に戦っているのだと、自分への評価をプラスに捉え直すことだと思う。

たとえ、結果が思うように出なくても、
まずは目の前のことに精一杯取り組んでいる
自分自身に価値があるのだ。

自分には「限界」があるから、「可能性」への挑戦を諦めるのではなく、どうしようもない「限界」があるからこそ、「可能性」に対するベストの尽くし方が見えてくる、その先に自分の未来が開かれるんじゃないか、と最近考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?