一瞬だけ輝かせる教員は要らない

卒業式の季節になると
最高学年の子どもたちが、式典の練習を始める。

起立、着席の所作を揃え
おじきの角度や頭を上げるタイミング
証書の受け取り方や歩き方、動線の確認
合唱の練習、呼びかけの言葉の練習

事細かく指導され、
子どもたちは卒業式の形を覚える。

ほとんどの子どもは、文句を言いながらも練習し、式典の厳かな雰囲気が作り出す緊張感の中で、それなりな卒業式をやりきるだろう。

しかし、その子どもたちに
「なぜ君たちは卒業式を行うのか?」と問うたときに、しっかりと自分の答えを述べられる者がどれだけいるだろうか。

ほとんどの子どもは
「いやいや、なぜやるのかって言われても、学校でやるって決まってるし、親も絶対出ろって言うだろうから、やらない選択肢ないでしょ」
と言うだろう。

これは正論のように思える。
しかし、ほとんどの教員は、この考え方が直感的に間違っていると感じるはずだ。
しかし、どう返すだろうか。

この考え方の問題点は、自分の行動について意思が無いと言うことだ。
常に自分の意思でそこに立っていないということである。
ただ大人達の言われるがままにそれとなくこなし、流されているだけということだ。

だから、式典が終わって家に帰り、衣装を脱いだら、魔法がとけたかのように一瞬で平凡な日常に戻ってしまう。

そして、流されるがままに中学、高校、大学と進学し、周りにながされて、なんとなく好きでもない仕事に就き、なんとなく生きていくようになってしまうだろう。

そのような生き方を否定はしないが、
あえて子どもたちにその生き方を望む大人がいるだろうか?

大袈裟かもしれないが、自分の意思をもって行動するために、卒業式に臨む自分なりの答えを探させなければならない。
見つからないとしても、自分が流されて今ここに立っていることの危うさを自覚させることは必要であろう。

式典はそれに気付かせる良い機会となるはずだ。

しかし、ほとんどの教員は、保護者が見ているその瞬間だけ、子どもを輝かせることに必死だ。
保護者に立派な姿を見せられれば、それで終わりでたって、その先のことは知ったことではない。

保護者の喜びと教員の自己満足のために尻に火をつけられる思いで必死に頑張ることを強いられる子どもたちが、自分の意思をもって行動するようになることなどないだろう。

卒業式だけではない、
運動会や音楽会などの行事
学校公開日の授業
掲示物や作文の修正や添削

保護者の目に触れる瞬間だけを整えてもなんの意味もない。

子どもたちが将来、自らの意思と力で輝くようになれる指導が必要だ。

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