言葉に厳密でない教員は要らない

子どもは半ば自然に言葉を習得するが、それを発する際に、言葉を間違えることは誰しもが経験する。

そのその間違いが、誰からも明白であれば
すぐに修正される。
例えば、犬のことを鳥と言ったり、
水のことをコップと言ったり、
走ることをジャンプと言ったり、

このような間違えを目の当たりにしたほとんどの大人は、「あれは○○じゃなくて、⬜︎⬜︎だよ」と教えるだろう。

しかし、5.6歳くらいになって、使える言葉や表現が増えると、その言葉の間違え方も変わってくる。

「ねぇ、今日ねぇ、佐藤さんからねぇ、折り紙くれたの。だからね、とっても楽しかった〜」

この発言に違和感を感じるだろうか。
仮に気になったとしても、就学前の子どもの言葉をどこまで修正するだろう。

私は、この間違いをしっかり指摘するかどうかは、子どものその後の学力に大きく影響すると考える。

「佐藤さんから」なら「くれた」ではなく「もらった」が正しいし、
もらって「楽しい」ではなく、「嬉しい」ではないのか。
と修正することで、子どもは言葉に厳密になっていくはずだ。
言葉に厳密であることは、自分や相手が発する言葉が状況とマッチするか常に考え、判断しているわけだから、何も考えずに言葉を発している人間よりも物事を正確に捉えられるはずだ。
それは学力やコミュニケーション能力など、様々な能力の伸長に寄与するはずだ。

そして、親はともかく、教員であればこの言葉への厳密さは極めて重要である。
大人同士なら、めんどくさいと思われる程に厳密であるべきだ。

しかし、そのような教員がどれほどいるだろう。
子どもが教員に対してタメ口を使っていてもスルーするぐらいだから、
ほとんどの教員は細かい言葉のニュアンスなど指摘しないであろう。

指導する際にも言葉への厳密さは必要になる。
例えば、『学習する、学ぶ、勉強する、記憶する、身につける』
近い言葉だが、一つひとつに違いがあり、その意味の違いを厳密に捉えなければ、その子どもの状況を正しく見取ることができないはずだ。

その子は、学習したのか勉強したのか、記憶したのか身につけたのか、
この微妙な捉え方の違いが、その後に指導に変化を与えるはずだ。

それが分からなければ、教員の独りよがりの指導ということになる。

決して『言葉の使い方を間違えてはならない』ということではない。子どもであれ大人であれ、そんなことは日常茶飯事だ。
そういうことではなく、自他の言葉に厳密になり、会話の中の軽微な違和感をも察知して、修正しようとする姿勢が、より良い指導や教育につながっているのである。

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