集まる教員は要らない

教員はすぐに集まりたがる習性がある。
習性というべきか、習慣と言うべきかは不明であるが、事あるごとに集まって、口頭による情報の共有を行う。
そして、口頭で共有されたことを、それぞれがメモする。議事録も手書きで残しているが、それが共有されることはほとんどない。

このような集まりは、教育現場では日常的に行われている。

学年の集まりに始まり、
職員会議や各分掌等の集まり、
市や区の教育研究会等の集まり、
都道府県規模の研修の場合、自治体中の学校から教員が集まり、ホールを貸し切って行われることも多々ある。
とにかく、ことあるごとに集まるのだ。

どんな集まりであってもやることは全て同じだ。
口頭で共有されることを、資料等を見てメモを取りながら聞き、記録する。
校外の集まりの場合、必要があれば持ち帰った記録から再度資料を作成し、校内研修として口頭によって共有される。

実習を伴う技術継承を目的とした研修であれば、集まることは厭わないであろうが、ただの情報共有のために集まる必要があるだろうか。

私が最も滑稽だと感じたのは、タブレットPCを活用して業務を効率化するための研修や情報交換会等も、同じように集まって、分厚い紙束の資料を用いて行われているということを知ったときである。

こんなことをしている集団に、働き方改革もDXも進められるはずがない。

そもそも、なぜ集まるのか、口頭で共有することにどんな意味があるのかを全く考えていない。
だから、もちろんのこと、集まることのデメリットもコストも考えていないし、感じてすらいないのかもしれない。

誠に末恐ろしいことである。

こんなことを言うと
「口頭でないと伝わらない」だとか
「資料を渡すだけだと、見ない人がいる」だとかいう声が聞こえてきそうだが、そんなのは関係ない。
そもそも何も考えてない人間が集まっているのだから、もちろん主体性もないし、聞いているフリをしているだけなのだから。
聞いている人がいるとしても、それは聞いていたことを証明するためのメモを残すためだろう。
これに至っては、労力を無駄にしている分尚更に悪い。

メッセンジャーのやりとりだけで十分ではないのか?
ビデオ会議の方がコスパもダイパも良いのではないのか?

このように考え、集まる機会を厳選することで、
顔を合わせて議論したり検討することの意味を感じることができ、その時間やそこでの出会いを大切にすることができるのだと思う。

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